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月例佳作 短歌編 2023年4月号

投函したのは2023年1月12日。既に角川『短歌』の定期購読を終了しているので、陶芸教室近くの本屋の棚で落選を確認しようとしたら、一首だけ佳作に入っていた。

佳作に選んでいただいたのは、小黒世茂先生。

連休の小さな旅で見つけ出す隣の町の小さな歴史

この歌は雑詠の方に提出した初詣をテーマにした3首のうちの1首だ。他の2首は以下。こちらは選から漏れている。

初詣その土地毎の神が居りその土地毎に願うことあり

初詣年に一度の稼ぎ時声を嗄らして喉飴を売り

本来なら初詣は自分の氏神に参るのだろうが、そういう地縁的なものとは縁がないので、毎年その時々に思いついた神社仏閣にお参りしている。今年は川崎大師。コロナがあろうがなかろうが、私自身が人混みが大嫌いなので、混雑することがわかっている三ヶ日を避けて参拝するのを恒例としている。今年は三ヶ日の後の最初の日曜日である1月8日に出かけた。川崎大師というのは神奈川県で最も多くの初詣参拝客を集める寺社らしいので、松の内から外れているとは言いながらもそれなりの人出があるだろうと覚悟はしていた。いざ出かけてみると、覚悟の想定内で少し安心した。

参拝客の何割かは、毎年必ずその神社や寺にお参りするという人であるはずだ。そういうことがそれぞれの寺社の初詣の雰囲気を作り上げているのだと思う。どこがどうとは言葉にできないが、それぞれの土地や寺社の成り立ちを知ると、その雰囲気の何事がなんとなく了解されたり、腑に落ちたりするものだ。それは「小さな歴史」であることの方が多いのだが、そういうことを知ることが、何故か嬉しかったりする。

よりにもよってカメラを持ってこなかったのでiPhoneで撮影した

神社仏閣が好きでよく参拝するが、願い事はしたことがない。作法通りに頭を下げたり柏手を打ったり、手を合わせたりするが、その時先方に伝える心の言葉は「お邪魔します」というだけ。自分が神や仏の立場だったら、見ず知らずの奴にわずかばかりの小銭を放られてあれこれ個人的な欲望を訴えられても「ふざけんじゃねーよ。そんなこと自分でなんとかしろよ」と思うだろう。まぁ、そう思う時点で世間が想像してるであろう「神」や「仏」にはなれないので、「神や仏の立場」になってみることに意味は無いのだが。

ある時、「一生に一つだけ、必ず願い事が叶う」という神社の前を通りかかり、せっかくなのでお参りした。その後、近くに行く用事がある時には参拝しているが、そこでも「お邪魔します」としか思い浮かばない。南州太郎か。

願い、というか欲望は数え切れないくらい抱えている。だから「一つだけ」と言われてしまうと困惑する。あのこと、このこと、とあれこれ思い浮かべ、次に思うのは、「そんなこと」を「一つだけ」にしてしまっていいのか、ということだ。もっと他にあるだろう、と。

例えば、「ジャンボ宝くじ一等が当たりますように」という願いが5,000円の初穂料で実現したとして、それが本当に幸せか?幸せとはその程度のことか?その程度の人生は生きるに値するのか?

ちなみに昨年までの5年で初詣に出かけた先は以下の通り。
2018年 明治神宮(東京都渋谷区代々木神園町)
2019年 秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
2020年 鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)
2021年 寒川神社(神奈川県神奈川県高座郡寒川町宮山)
2022年 玉前神社(千葉県長生郡一宮町一宮)

秩父は、三峯神社が所謂パワースポットとして有名で、初詣の時期に限らず、西武秩父駅前のバス乗り場には長い行列ができている。興味がないわけでは無いのだが、人混みとか列に並んで何かをするということが嫌いなので、行ったことがない。秩父神社の方は街中の足の便の比較的良い立地の割には静かで、見どころ満載の楽しい場所だ。

日本の首都が西日本から江戸に移り(鎌倉はとりあえず割愛)、現在のような「一極集中」と呼ばれる体制に至るのは何故かという大きな話を考える時、現在の関東地方がこの国の歴史の中でどのような場所であったのかについて、深掘りしてもしきれないほどのあれこれがあると思う。富士山が活火山であった時代と休火山とされるようになった近代以降とでは全く異なる土地観・地域観があるのだろうし、ホモサピエンスの大移動で日本列島の南から進出してきた人々と、北からの人々との境界として富士山とその周辺、殊に関東平野が位置していたであろうことは地形図を一瞥して直感できる。

例えば、奈良の春日大社は奈良時代に平城京(つまり国家そのもの)の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀っている。主祭神は武甕槌命(常陸国鹿島の神)、経津主命(下総国香取の神)、天児屋根命(河内国平岡の神)、比売神(河内国平岡の神)の4柱。なぜ鹿島・香取なのか?出かけたところで私如きに何がわかるはずもないのだが、初めて奈良を訪れて春日大社に参拝した後、鹿島神宮と香取神宮にも参拝した。鹿島から香取へはJR鹿島線を利用して香取駅で下車して歩いたのだが、香取駅から香取神宮まではけっこうな距離だ。また、何もない。ただ歩くだけの道程だ。何もないのだが、古墳はある。ポツンとある。あやしいぞ、となるわけだが、際限がないのでこの話は止める。

あやしい、といえば春日大社の神々のもう一方の勧請元である枚岡神社もなんとなくスゴイ感じを受けた。近鉄の枚岡駅のすぐ前が参道入口だが、そこに立っただけで何かありそうな雰囲気が漂っている。私が訪れた時は社殿の改修工事で肝心のところが工事の足場で覆われていたが、そういう後付けの事物ではなしに、場所の静まり方がちょっと違うのである。それと枚岡神社で気になったのは住所だ。大阪府東大阪市出雲井町で、後付けかもしれないが「出雲」がやはり気になる。

それで、短歌の話をしないといけない。選に漏れているが、投稿したもう一首の雑詠がこれだ。

年一度葉書一枚ほどの事思いつかない薄き関係

まだ賃労働者の身分なのだが、久しく年賀状は書いていない。いただいたものに返事を書くだけだ。年賀状のことは以前に何度か書いているが、葉書の裏面全体を文字で埋める。いただく方の年賀状の3割くらいは出来合いの葉書に一言どうでもいい文句が添えられているだけだ。どういうつもりで出しているのかと思う。

題詠のお題は「推す」。

推す推され内輪だけでの平和な日均衡破る誰かの本音

推し推されその気になって外に立ち退路断たれた月冴える夜

一推しイチオシが転けて下野してお荷物に水に流そうあの日の言葉

所謂「推し」というものに世間の冷たさを思う。もてはやされていたヒト・モノ・コトが些細なことをきっかけに憎悪の対象に転じる様子は珍しいことではない。喧しい奴は信用できない。

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