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大久保喬樹 『ひきだしの奥から』 ふらんす堂

大久保訳の『茶の本』が読み易かったので、どのようなものを書いた人なのだろうかと他の著書を検索したら本書が目に入った。本書は俳誌『香雨』に連載されたエッセイをまとめたものだそうだ。2年間の連載を終え、その24篇を単行本にまとめる際の著者校正という段で大久保が亡くなってしまったという。結果として本書が大久保の最後の著作となった。ふらんす堂というのは俳句や短歌など詩を主に扱う出版社らしい。本書は内容もさることながら装幀が良い感じで、手にしただけで「何が書いてあるのだろう」とページをめくりたくなる。一時期、夏葉社の本を続けて読んだが、そこの本も装幀が良かった。

先日、九鬼周造の『「いき」の構造』を読んだときのことを、

「いき」が哲学上の考察の対象になることに驚いた、というか呆れた。いや、感心した、としておく。

と書いた。妙なことを「哲学」するものだと思ったのである。本書に収載されている「宿縁」のなかに岡倉天心と九鬼周造のことが書いてある。九鬼が『「いき」の構造』を構想した背景のことが書かれていて、諸々腑に落ちた。

 やがて成長した周造は哲学を学び、欧州に留学した。ドイツからパリに移ると同時に同道した妻を家に残して盛んに遊び歩き、しゃあしゃあと「ひと夜寝て女役者の肌にふれ巴里の秋の薔薇の香を嗅ぐ」などとうたったりしたが、こうした放蕩体験は「ふるさとの『粋』に似る香を春の夜のルネが姿に嗅ぐ心かな」というように自分を育てた故国の文化を振り返らせる機会ともなった。さらにはその原点として「母うへのめでたまひつる白茶いろ流行はやりと聞くも憎からぬかな」というように元は花柳界の出身だったという母への思いに至るのである。周造の代表作であり、天心の『茶の本』と並ぶ日本文化論の傑作『「いき」の構造』はここから生まれる(この作品は初めフランスでフランス語で執筆した草稿を帰国後に日本語に改稿出版した)。

147-148頁

当たり前だと思っていることは、それが側から見て奇怪なことであったとしても、当人にとっては思考の対象の外にある。世間で当然だと思われていることも、違和感を覚えれば思考の切っ掛けになる。九鬼の「放蕩」がどのようなものであったのかはわからないが、異国での体験が母国の風土に根差した感覚を相対化させ、「哲学」として世に残った。もちろん、そこには九鬼の思考だけでなく、それを取り巻く諸々の巡り合わせもあってのことだ。それでも、暮らしの中に様々な異質な要素を織り交ぜることは、思考の刺激にもなるだろうし、巡り合わせを呼び込むきっかけにもなると思う。いわゆる「遊び」はそういう「異質な要素」として重要である気がする。

本書に収められているエッセイは大久保の幼少期の記憶や海外体験に基づくものが多い。どちらも今現在の暮らしから見れば「異質な要素」だ。そういうことが思考の種になるということだろう。考えてみれば、我々の暮らしは四六時中「異質な要素」と遭遇している。異質だらけと言ってもいい。何一つ同じままに止まっているものなどないのである。だからこそ、普遍性とか恒久とかいう変わらないものの存在を求めるのだろう。

本書の3篇目に香港出身の人のことが書かれている。大久保がパリに留学したとき、外国人登録のために役所に出向いた際にその行列の中に日本人らしい顔つきの人がいた。話しかけてみると、香港出身の人だった。大久保同様、フランス文学の勉強を志して留学した人だったので、話が弾み、交流が始まったと書かれている。その人の一族は中国大陸の方で大地主だったが、共産革命で追われて香港へ流れたのだという。その後、往来が途切れたが、10年ほどして再会した。その人は米国で仕事を得て、その仕事が縁で伴侶も得て、彼の地で暮らすようになっていた。ニューヨークで大きな家に住んでおり、大久保が訪米するときには、そこに泊めてもらったりしたらしい。

 ある日、ミミはぽつりと漏らしたことがあった。「私たち一家にはもう母国というものがないの。ニューヨークにはそうした人が沢山いるわ。だからこうやって一緒にご飯を食べられる友人たちが母国の代わりになるの。あなたもそのひとりよ」。その後、帰国してからもミミが東京に来たり、私が香港に訪ねたり何度か会う機会があったが、次第に連絡が間遠になり、いつしか途絶えてしまった。
 ある時、風の便りにミミは体調を崩したかで仕事を辞めて香港に戻り、それから消息不明となったと聞いた。
 私は心を痛めたが、それ以上ミミの行方を捜す手立てもなく、やがて私の中のミミは初めて出会った時のひまわりのような笑みを浮かべた少女に戻っていった。

21頁 「異国の出会い」

「国」というものは「自分」というものを認識するに際してとても大きな存在だ。しかし、そう感じるのは自分がたまたま今の時代の今の日本に「日本人」として生まれ育った所為であって、「国」とか「国籍」が誰にとっても同じようなものに感じられるはずはない。それは理屈としては了解できるが実感を伴って理解することは、少なくとも今の自分にはできない。なぜなら、「国」のありようが全く異なる土地でそこの「国民」として暮らした経験がないからだ。世界は自分が感じているよりもずっと流動的で、絶対に安定することなどなく、常に五感を総動員して「生きよう」と心がけていないと生きていることができない場所なのだ。「母国」がないのは誰しも同じことで、本当はこの世に在るひとりひとりが「一緒にご飯を食べられる友人」同士でなければ、人間なんかけっこう呆気なく滅んでしまうのだろう。

前に陳先生の『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』を読んで国籍の意味のようなことを考えたことがあった。今その自分の書いたものを読み直してみると、思慮浅薄という言葉が思い浮かんだ。しかし、だからといって削除してしまうのではなく、その時そう考えたことは確かなので備忘録としては残しておいた方が自分の反省の種になって良い。単に何かを書くことが好きで、日々の暮らしのガス抜きのようなつもりで駄文を書き殴っているが、それで恥ずかしい思いをすることも自分にとっては悪いことではないと思う。

大久保は晩年を調布に暮らしたらしい。本書のエッセイの中で深大寺と神代植物公園は散歩コースだったと書いている。ひょっとしたら深大寺の境内や近辺ですれ違っていたかもしれない。見出しの写真は深大寺門前の風景。

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