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蛇足 『大工道具の歴史』

木工教室に通ったことがある。陶芸を習い始めて何年か経った頃、陶芸作品を収める箱も作ろうと思ったのである。木工も陶芸も週一回だ。しかし、木工を習い始めてまもなく、その考えは間違っていることに気がついた。作品の生産性がまるで違うので、陶芸作品の制作に箱の制作が全く追いつかない。そもそも箱に収めるほどのものはできない。今なら、箱なんかいらないだろうと思うのだが、なぜそのような馬鹿なことを考えたのか。結局、教室に通い始めて3年ほどして、当時の勤務先を解雇されたのをきっかけにやめてしまった。失業したというのに、なぜか陶芸をやめようとは思わなかった。よほど好きなのか、よほど馬鹿なのか。

道具類は教室にあるものを使ったので、自分では何も用意していない。だから、大工道具についてあまり考えたこともなかった。本書を読んで「へぇ」と感心することばかりで、やっぱり続けておけばよかったかなとも思う。

木工の先生は学校の先生だった人だ。もとは中学校の技術家庭科の教師で、教師を辞めて東京都の職業訓練校に通って技能を高め、自宅隣家が空き家になったのを買い取って作業場にしたのだそうだ。その空き家になった家はもともと染物屋を営んでいたのだそうで、庭には細長い水槽跡があった。私がやめた翌年だか翌々年、その木工教室がテレビ番組の「若大将のゆうゆう散歩」で紹介されたらしい。

ちなみに、私が今暮らしている団地には「じゅん散歩」で高田純次が何度か来ている。彼は以前にこの団地で暮らしていたそうだ。我が家にはテレビがないので、家人の勤め先の同僚がDVDに録画したものを貸してくれた。それを観ると、番組の中で団地を訪れた高田が唐突に「小川菜摘が…」と語る場面がある。彼女もこの団地の元住人だ。もちろん、私はどちらとも面識がない。

それで木工だが、陶芸作品を収める箱はいくつか作った。過去に4回、自分の作品展を開いた時に、箱のあるものは全て売れたので、今手元には陶芸作品用の箱は残っていない。木工教室で作ったもので、今あるのは椅子、ワゴン、ゴミ箱、蓋付の箱(蓋をひっくり返すと箱膳になる;見出し写真)の四つだけだ。椅子はその教室で最初に作る規定演技・基礎作業のようなもので、椅子とは名ばかりで板に脚がついているだけだ。今、炊飯器の台になっている。ワゴンは重宝している。ゴミ箱も大活躍だ。蓋付の杉の箱は普段使わない台所用品を納めて流しの下の物入れの中に鎮座している。

ところで以前にも書いたかもしれないが、義弟が木工作家だ。家人の実家は元は宮大工だった。それが神社仏閣だけでは商売が先細りになったので「宮」を取って大工になり、つまり普通の工務店になり、それも時代の流れの中で厳しくなって建具屋になった。家人が子供の頃は住み込みの職人も何人か抱えていたらしいが、ダウンサイジングの流れは止まらずに、義父、義父の弟、義弟の3人だけで切り盛りするようになった。義父の弟が引退し、親子だけになり、義父も実質的に引退して、昨年、建具屋を廃業し、義弟が木工作家として一人立ちした。制作するのは指物で、日本工芸会の正会員である。指物とは、鉄釘などを使わずに、材に切り込みなどを入れて組み合わせることで造形する木工品のことだ。もともとは公家や武家の調度品に使われたものだが、茶の湯に使われる木工品の茶道具として一般に広がり、箪笥などの家具としても普及するようになった。先週から今週月曜にかけて、日本橋三越でグループ展を開催していて上京していた。幸いにも、出品作品のいくつかに赤札が付いた。ありがたいことだが、東京に出てこないと商売にならないのも現実なのだそうだ。ちなみに、日本工芸会の総裁は秋篠宮の佳子様だ。昨年までは眞子様が総裁だったが、ああいうことになってこうなった。どこもそれぞれに大変だ。

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