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蛇足 『ナショナル・ストーリー・プロジェクト 全2巻』

本書は五人の翻訳者が分担し、全体のある程度の統一を柴田元幸が担当しているのだそうだ。その五人の中に岸本佐知子がいる。10年前に岸本を含む座談を聴いた。2014年2月9日に世田谷文学館で行われた「おかしなトークショー」と題されたもので、登壇者はクラフト・エヴィング商會の二人、岸本佐知子、古屋美登里の四人だった。

かつてテレビのある生活をしていた頃(つまり2007年9月22日以前)、よく観ていた番組に「週刊ブックレビュー」があった。そのオープニングのアニメーションを担当していたのがクラフト・エヴィング商會だ。それ自体に特にどうという想いはなかったのだが、なんとなくそのアニメと「クラフト・エヴィング」という名前が引っ掛かっていた。クラフト・エヴィング商會というのは吉田篤弘・浩美夫妻によるグラフィック・デザインや本の装丁、著作などを行うユニットである。世田谷文学館ではクラフト・エヴィング商會の作品展を開催していて、そのトークショーは作品展の関連企画だった。岸本佐知子も古屋美登里も翻訳者で、この人たちが訳すようなジャンルの本は読まないので、それまで知らなかった。トークショーも特にテーマのようなものがあるわけではなく、友人同士の会話のような楽しさが伝わってきた。クラフトの夫の方と岸本が赤堤小学校の出身だそうで、クラフトの妻の方が赤羽の出身で、古屋が赤羽在住ということで地元ネタで盛り上がっていた、と記憶している。

この座談会がきっかけとなって、岸本の『気になる部分』というエッセイや翻訳作品であるミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』を読んでみた。面白くはあったが、手元に置いておきたいと思うほどではなかった。もちろん、今読んだら何を思うのか、わからない。『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』で岸本が翻訳を担当している章は「見知らぬ隣人」と「夢」だ。「見知らぬ隣人」は文庫の1巻から2巻に跨っていて20篇から成っている。日常生活の中でよく見かけるけれども誰だか知らない人との何気ないやりとりとか、旅先でたまたま隣り合わせた人との会話とか、忘れてしまってもおかしくないのに何故か忘れ得ぬエピソード、といった風の話。「夢」は夢と現実との交錯のような15篇から成る。

自分が脳挫傷で入院して、入院中から退院後しばらくの間、それまでにないほどたくさんの不愉快な夢を見た。しかし、夢というのは本当は記憶の断片が無作為に現れるのもので、目が覚めてから自分で無意識にストーリーを拵えて、それらの断片を収まりの良いように再構成した上で、「夢を見た」と認識するものらしい。何かのきっかけで悪夢が噴出するのは現実の生活に問題かあるということなのかもしれないが、だからといって何をどうしたらよいのかわからない。

柴田が全体の調整を図っているとはいえ、よく読めば5人の翻訳者の個性が文章に見え隠れしているのかもしれない。しかし、迂闊に通読して2巻の終わりに至り、「訳者あとがき」で「五人の訳者が」と言われても、「へぇ、そうだったの」と思うよりほかにどうしようもない。

以上、蛇足として記しておく。

蛇足ついでに、世田谷文学館での座談会で話題に挙がっていた赤羽について思いついたことをひとつふたつ。

埼玉県蕨市で生まれてから、川口、戸田と埼玉県の県南のかなり限定された地域で長いこと暮らしてきた。特に一番長く暮らした戸田は田圃と、それを潰して建てた住宅、倉庫、工場などしかない土地だった。いわゆる「歴史」のようなものがない土地だった、ということだ。中山道の板橋宿と蕨宿の間に位置するため、余程のことがなければ発展のしようがなかった。たぶん、「余程のこと」はなかった。

たまたま『文藝春秋』の四月号に村上隆と村上裕二の対談が載っていた。村上兄弟は板橋区坂下で幼年時代を過ごしたとあり、自分と同世代の人間の荒川対岸での暮らしが語られているというだけで妙に興味を覚えた。

「私は幼少期の記憶がほとんどありませんが、生活が貧しかったことだけは覚えています。板橋の家はポットン便所。雨がたくさん降ると、便所の中身まで雨水と一緒にプカプカと浮かぶ光景は、目に焼き付いています(笑)」(隆)

『文藝春秋』2024年4月号 「小さな大物」

こういうのは我が家の方も同じで、雨が上がった翌日に役場の車がやって来て消毒液を撒いていた、その臭いまで記憶に残っている。そういう暮らしの中で、ちょっとした買い物に出かける先が赤羽だった。スズラン通りは今とは比べ物にならないくらい賑やかで、立ち並ぶ商店の中には大丸もあった。後にダイエーができて、店舗の規模としては中途半端なものになってしまうのだが、全国区の百貨店は商店街には場違いというか、商店街に箔をつけるというか、やはり存在感があった。

現在は複数の商店が入居する商業ビルである赤羽METSは、当時は一棟丸ごと西友で、屋上にはコイン式の遊具が並んでいた。親が買い物をしている間、西友の屋上か近くの赤羽公園で遊ぶのが楽しみだった。西友の近くにあるセキネの焼売や肉まんはたまに買って帰っていた気がする。帰りのバスが出るバス停は駅前ではなくて東本通りにあり、バスを待つ間をヤマナカ模型店で過ごすのがこれまた楽しみだった。セキネもヤマナカも今でもあるのだが、赤羽と戸田を結ぶバス路線は今はない。駅を挟んで反対側にはオデヲン座という映画館があり、夏休みは怪獣映画やアニメの二本立てを観に行った。とにかく貧乏だったので、そういう賑やかな場所を歩くだけで楽しかった、気がする。

今もたまに赤羽の街を歩いてみることがあるのだが、スズラン通りはとりあえずアーケードになっているというだけの通りになってしまったし、オデヲン座があった場所はファミレスになっている。

風景が変わり、それを見る自分の眼も変わってしまったが、それでも何かしら記憶の断片が見え隠れしている。その残影というか、忘れてしまってもいいのに忘れ得ぬ何かがあるということが、何を意味しているのか。意味など無いのかもしれないが、なぜその断片なのかということは、今になって妙に気になるのである。記憶というものは本来無意味なのかもしれない。その記憶の主も含めて。

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熊本熊
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