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蛇足『拝啓 マッカーサー元帥様』

前回、本書に引かれていた手紙には一切触れなかった。約50万通の中の僅かなものであり、そこからさらに自分が何を選び出して語るかということに対し、ただでさえ非力な思考が一段と非力の度を増してしまってどうにもならなかった。しかし、読んだことについて何がしか考えを巡らさないことには読んだことにはならない。別に読む義務があるわけではないのだが、本書を手にしたことも何かの縁なので、縁は大切にしたい。そこで、改めて目次と付箋を貼った箇所を読み直し、僅かばかりの抜き書きを「備忘録」として残しておくことにした。

占領期間中に日本人からマッカーサーに宛てられた手紙は内容も長短も様々で必ずしも一通の手紙の要点が一つだけというわけではない。むしろ、そういう手紙は少なくて、己の主張や要望をあれこれと書き連ねるものの方が多い。少なくとも本書を読む限りはそうした印象を受ける。また5年8ヶ月に及ぶマッカーサーのGHQ司令官在任期間のどの時点での手紙であるかということも内容を左右する。そういうことを含んだ上で内容を分類すれば以下のような括りが可能だと思う。

「戦勝おめでとう」
「ね、ね、来て、来て」
「天皇陛下のことは勘弁してあげてね」
「アタシを抱いて」
「つまらないものですが」(贈答品)
「私の考えを聞いてください」
「請う仲裁」
「私の願いを聞いてちょうだい」

手紙なので、相手に語りかけるような書き方がわかりやすいかと思い、上のような分類をした。50万通もあればマトモなものもたくさんあるのだろうが、本書を読む限り、「恥も外聞もなく」というのはこういうことかというようなものが多い。読んでいるこちらの方が恥ずかしくなる。いずれに分類したところで、書いた本人はマッカーサーに手紙を書いたということに意味を見出しているのだろう。本書の著者である袖井は立場上、文面の論理を解説して見せたりするのだが、言わんとするところは前回のnoteに書いた「私的あとがき」の部分だろう。手紙は詰まるところ書き手のEgo tripに過ぎないもので、50万通が多いか少ないかは人それぞれの判断であるにしても、この国はそういう国であるということでもある。

戦後の日本は「民主国家」ということになったのだが、天皇制は「象徴天皇制」として存続した。開戦時の天皇陛下は敗戦後も、現人神から「人間」に地位を転じたとはいいながら、引き続いて生涯を通じて天皇陛下であらせられた。「昭和」は約62年間(1926年12月25日から1989年1月7日まで)に亘たり、日本において最長の元号となった。終戦前から進められていた連合国による対日占領研究において占領時に天皇制を維持することは既定路線であったことがわかっている。当然、連合国側には天皇の戦争責任を問う声はあったが、米ソの緊張が高まる中で、極東の占領政策を早期に安定化するには既存の価値体系の根幹を揺るがすわけにはいかないとの判断であったのだろう。しかし、生き残った者はそれでいいとして、戦争で命を落とした人々の想いはどうだったのだろうか。全員ではないにせよ、「天皇陛下万歳」と腹の底から信じて逝った人は少なくなかったはずだ。天皇の名のもとに始めた戦争の責任が天皇に無いということがあるのだろうか。現にあるわけなので、ここでウダウダ書いても始まらない。つまり、世の中とはそういうものなのである。

さすがに米国側も天皇の政治利用ということについては後ろ暗いところがあったようで、極東国際軍事法廷の検察部の資料として保管されていた国民からマッカーサー宛の天皇に関する投書は長らく秘密扱いだった。秘密解除となったのは戦後30年が経過した1975年のことだそうだ。ちなみにGHQが民間の調査機関を使って1945年10月に日本国民を対象に実施した世論調査では天皇制支持が95%を占めたらしい。同時期に実施された他の調査でも同様に天皇制は圧倒的な支持を受けていた。天皇が国家主権を体現するものとして歴史の表舞台に登場するのは明治維新以降のことだと思っていたが、たぶん、そうではない。この辺りのことは日本史における重大なテーマだと思う。だから、私のようなものがこんなところで迂闊なことを書くわけにはいかないのである。

巻末の解説の中でジョン・ダワーがこんなことを書いている。

もしマッカーサーが敗戦日本で果たすべきものとされた使命が、真の民主主義への移行を推進することであったならば、このやり方は本質的に矛盾したものと思われる。一九四五年から四九年までマッカーサー司令部は、日本のすべてのメディアに公然たる検閲を行い、占領の最後の最後まで、マッカーサー及び圧倒的にアメリカ人によって占められた彼のスタッフは、批判というものを受け付けなかった。それは太平洋戦争の最中に大日本帝国の軍部が示した態度を越えていた。マッカーサー・ショーグン、いや、ダグラス天皇の下における民主主義は、拘束された民主主義であった。いったん占領が終わると、次に控えた問題は、どちらがより大きな遺産だったのか—民主主義的遺産か、それとも拘束そのものだったのか—ということである。

424頁

言葉遊びになってしまうが、「民主主義」というからには「主」となる「民」が存在しなければならない。日本に限らず、およそ人間の社会において「民」たるものが存在した時代や国はあるのだろうか。とりあえず直立二足歩行ができるという程度の者で占められているところばかりのような気がする。

さて、手紙のことに戻る。天皇に関するマッカーサー宛の手紙は裁判資料として厳重に保管されていたが、行方知れずになった大量の手紙があるらしい。それは女性から送られた"Father-child relationship"を求める手紙だ。要するにマッカーサーに抱いて欲しいというものだ。こういうのも当然あるだろうと思う。現代の「パパ活」に通じるものと言えるだろう。

歴史家のグラント・グッドマン教授(カンサス大学)は、占領中にGII(情報部)のATIS(翻訳通訳隊)に若き語学将校として勤務していたことがある。
 グッドマン教授は当時『思想の科学』に連載中だったこの「マッカーサーへの手紙」のことを誰かから聞いて興味をもったらしい。なにしろ彼は、マッカーサーに送られた日本人の手紙を当時自分でも翻訳していたのである。
 「ミスター・ソデイ。君は日本の女性たちがマッカーサーに"ファーザー・チャイルド・リレーションシップ"を持ちたいといってきた手紙が、今どこにあるか知らんか?」
 「父子関係を持つというと?」
 「つまり、あなたの子どもを生みたいということさ。そうハッキリ書いてあったよ」
 「それは驚きですね。今までそんな手紙は見たことがないですよ」
 「いや、そういう手紙は何百通もあってね。私は同僚と一緒に大笑いしながら翻訳したもんだよ」
 私はいうべき言葉もなかった。だがよく考えて見れば、男らしい男の子どもを生みたいというのは女性の本能ではないか。昔から日本には、女性の方から積極的に「お種頂戴」と、男に迫る習慣があったといわれ、地方の軍港などでは、碇泊する軍艦の水兵に親が娘を進んで提供し、いい子どもをさずかることを望んだという記録もある。
 マッカーサーは占領下の日本人にとって、神にも比すべき存在であった。畏れ多くてとても近づけないと、多くの人は感じたかもしれない。しかし、私たちがまだ見ていないグッドマン氏らの翻訳したそれらの手紙は、マッカーサーという至上の男性に「あなたの子どもを生ませて下さい」と書き送った、勇敢な女性が数多くいたことを示している。

160-161頁

私は若い頃にトレーディングルームで働いていたことがある。債券のトレーダーをやっていた。今に比べれば牧歌的な時代だったが、それでも稼ぐ数字が評価の全てだった。もちろん、人それぞれに個性があるのだが、能書きばかり達者で数字がついてこない同僚や顧客を指して「識者」と呼んでいた。普段の会話に使う二人称は「先生」というのが一般的だった。それで不機嫌になったり腹を立てるような奴はいない。数字がはっきりしているからだ。また、そんなことを気にしているようではこの世界では働けない。つまり「識者」というものの本当の意味はさておき、自分の日常生活の中で「識者」とか「先生」というのは軽やかなものである。

戦争中の「識者」もGHQから見れば軽かったようだ。戦時中は喧しく戦意高揚の論陣を張ったりガクモンを先導していた「識者」は見事なまでの掌返しをしてみせた。

 「時が変われば鳥が変わる。鳥が変われば歌が変わる」という諺が西洋にはある。マッカーサーを厳罰にせよ、などということは戦争中の歌詞であって、戦後はマッカーサー礼賛の歌が歌われるのは当然であろう。しかしこの国では時が変わっても鳥はあまり変わらない。同じ顔ぶれが掌を返したように違う歌を歌いはじめる。

345-346頁

ところで純粋に文筆活動が理由で追放された学者や作家は二六八名と比較的少ない。作家の中には山岡荘八、火野葦平、尾崎士郎などが含まれるが、それぞれがあげる解除申請の理由には、各人の戦争責任感をめぐり人物の器量が現れて興味深い。

389頁

「申請解除の理由」についての手紙もいくつか引用されているが、みっともないものばかりである。この国の「識者」の程度がよくわかる。「識者」がこの程度なら、と自分を比較してみたりする。そして己の凡庸さとか矮小さについても納得がいき、「ま、しょうがねえな」と妙にホッとしたりする。こういう納得の作業というのは人生の晩年には重要なことだと思う。よく世間話で身近な人と話すのだが、希望としては最期は穏やかに迎えたい。少なくとも心の整理はしておきたい。しかし、現実がそうなるかどうかはわからない。そもそも思うように生きることができないのに、思うように死ぬことができるはずはないだろう。死も生の一部だと思う。

「蛇足」とは言いながら、取り止めがない。見出しの写真は八丈島にある回天の基地跡に据えられていた碑。大戦末期、戦況の「回天」を祈念した命名らしいが、戦況は回天しなかったもののの、社会は戦後に見事なまでに回天した、ように見える。少なくともマッカーサーに手紙を書いた人々の頭は鮮やかに回天したようだ。

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