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C.N.パーキンソン著 森永晴彦訳 『パーキンソンの法則』 至誠堂選書

「パーキンソンの法則」は結構有名だと思っていたら、そうでもないらしい。何年か前に職場の同僚と雑談している時にパーキンソンの法則にあることを会話の中に混ぜて話したら「あ、それ鋭いですね」と感心されてしまった。誤解されるといけないので、引用であることを説明したのだが、全く聞いたことがないという様子だった。

ごちゃごちゃ説明するよりも、いくつか抜書きを並べた方が面白いのではないかと思う。

仕事(とくに事務のそれ)の時間に対する需要が、弾力的であることからして、事実上為されなければならない仕事の量とそれに割り合てらるべき人員数とのあいだにはほとんど関係がないといえるようである。(11頁)

パーキンソンの法則は英国の役所を対象にした考察なのだが、組織一般に敷衍できる内容だ。改めて組織における「仕事」とは何かということを考えてしまう。近頃ではすっかりリモートワークというものが定着した感があるが、リモートでできる仕事というのは結局のところその人でなくてもよいものなのではないか。もっと言えば、そもそもなくてもよいことなのではないか。

(1) 役人は部下を増やすことを望む。しかしながら、ライヴァルは望まない。(2) 役人は互いのために仕事をつくり合う。(12頁)

これは今風ではない気がする。なんだか知らないが、世の中は総じてしみったれた方向に流れているので、組織においてもいかに少ない人数で仕事を回すかというようになっている気がする。尤も、役所のことは知らないが。

このパーキンソンの法則は今日の政治学においては、たんに純粋に理論的なものでしかないことを特に強調しておきたい。雑草を取り除くのは植物学者の仕事ではない。ただいかに早く繁るかを指摘すれば、それでよいのだ。(25頁)

この意味では、世間には「学者」が多すぎる気がする。手足を動かす人が蔑ろにされていないだろうか。自分が手足なので、なおさらそう思うのかもしれないが。

投票行為が事態の本質に影響するところはごく僅かで、最終決定は、われわれにはほとんど関係のないさまざまな要因によってきまってしまうものであるが、ただ、注意しなければならないのは、最終的に議論に結着をつけるのが、中間派の投票によるものだということである。もちろん、英国下院では、このような派がのさばる余地はないが、他の会議では中間派は非常に重要なものとなるのである。それは以下のごとき人々によって構成される。
 a あらかじめ作成され、出席を予定した人々に前もって配布されていた覚え書きをどれひとつ理解できない人々。
 b あまりに頭がわるくて議事の進行について行けない人々。こういう連中は互いに、いったい何のことをしゃべってるんだろうと囁きかわすから、すぐわかる。
 c 耳の遠い人々。耳のうしろへ手をやって、「もっと大きな声で話してくれないかねえ」と文句をいっている。
 d 二日酔で痛む頭をかかえながら起きてきて、「どっちみち大したことじゃないさ」と思っている人々。
 e 健康を自慢にし、事実若い連中よりも丈夫な年長者たち。「ここへは歩いてきたんですよ。八十二歳にしちゃ、ちょっとしたものでしょう」などという。
 f 両派を支持する約束をし、どうしていいか判らなくなっている意志薄弱者たち。棄権したものか、仮病を使ったものか迷っている。
(31-32頁)
かくして、中間派の票を確保すれば、動議はらくらくと可決され、また確保できなければ、よいとわかっていても否決される。民衆の意志によって可決さるべきほとんどすべての問題も、じつは中間派の人々によって決定されるのであり、したがって演説などはまさに時間の空費にすぎない。(40頁)

これは英国でのことを言っているのだが、組織での意思決定一般に敷衍できる。何を何に例えるか、それぞれの立場でどうにでも読み換えることができる。そして納得できる、と思う。

新しく創設される機関が、はじめから理事、部長、顧問、室長、ならびにおあつらえの新建造物をもってスタートする例は枚挙にいとまない。だが、経験によれば、そのような機関はやがて死んでしまう。それらは、自分自身の完全さのために窒息してしまうか、土のないために根がつかないか、すでに育てられてしまっているので、もはや自分では生きられないかである。花も咲かず、むろん実はならない。こうした例にぶつかったとき、たとえばいま国連のために設計された壮大なビルディングのような例をみるとき、われわれ民間の専門家たちは、悲しげに、首をかしげ、死骸に一枚の布をかけ、しのびあしでおもてに立ち去るのである。(107頁)

たぶん、物事は流動しているという現実に目を背け、ある瞬間の状況が未来永劫変わらないということにして意思決定が行われている。「アキレスは亀を追い抜けない」はずはないのに、なぜかそういう前提で作られたとした思えない組織、規則、関係などがある。

組織の秩序内に、高濃度の無能力(Incompetence)と嫉妬心(Jealousy)とを合わせもった人物があらわれるのがこの疾病の最初の赤信号である。無能力にしろ嫉妬心にしろ、それ自体がとくに問題だというわけではない。ふたつとも誰しもが多かれ少なかれもち合わせているものである。ところがこの二つの要素がある濃度をこすと、すなわち数式I3J5で表される量をこすと、一定の反応が起こる。その結果ふたつの要素は融合してわれわれがインジェリタンス(劣嫉素)と呼ぶ新たな物質を生じる。この物質ができたことは、自分の部署で成功しなかったものが、他人の仕事に干渉し、さらに中央の行政にタッチしようとする行為によって容易に判明する。挫折感と野心とのかかる混合があらわれるとき、専門家は「初期的あるいは特発的な劣嫉性」の疑いを持つにいたる。この症状による判断は、後に示すごとく、ほとんど間違うことがない。
 疾患の第二期は病変した人物が、中央組織を部分的ないし完全に把握したときに到来するが、また第一期症状を経ずしてこの状態があらわれる場合もかなり多い。というのはすでに病変した人物が最初からその高い地位に任ぜられて、組織の中に入りこむことがあるからである。インジェリタントな人物は、すべて自分より有能なものを追放したり、あるいはやがて彼よりも有能なものを追放したり、あるいはやがて彼よりも有能になりそうな者の昇進や任命に対してあらゆる抵抗を試みたりするため、容易に見わけられる。(中略)その結果、中央機関が、長官、支配人、あるいは議長よりも頭のわるい人間で満たされてしまう。トップが第二級の人ならば、彼は第三級の人物を直接の配下とするよう努め、また、配下どもはその部下に第四級の人物をもってこようとつとめる。最後にはほんとの馬鹿になるための競争がおこって、人々は実際よりもさらに馬鹿にみえる振舞いをするようになる。(121-123頁)

もうすぐ還暦だというのに勤めが忙しい。先月は規定の残業時間を超過して人事から注意喚起のメールが飛んできた。「忙しい」というのは「商売繁盛」というのとは違う。確かに、昨年は世界的な感染症騒動のなかで、勤務先は予想外に業績が好調で期中に臨時の配当を実施するほどだった。しかし、個人的には裏方仕事であるのと所属部署の直接的な業績貢献が皆無と看做されていることから、給与や賞与にそういう状況が反映されることはない。そもそも固定年俸なので賞与は無い。また、忙しいのは、単に仕事の形式面に由来するものと、コスト削減に伴う貧弱な社内インフラに伴う不具合の多発によるものであって、商売の業況とは直接関係していない。業績が不振の時は、我々裏方は真っ先に整理の対象になる。不条理なようだが、企業は利益獲得を目的とする社会集団なので当然のことである。それでこれまで渡職人のように、組織に対しては何の感情もなく仕事だけを淡々とするだけの暮らしで今に至っている。

所謂「定年退職」というものはなく、そういう年齢になると「おわかりでしょうけれど…」という感じでポジションが消える。今年か来年にそういう事になると思っているので、流れに任せておこうとは思っている。しかし、できることならそれを待たずにボチボチ辞めたい。馬鹿馬鹿しいことが多過ぎてしんどい。だが、辞めると収入がなくなる。切羽詰まれば何とかなるものかもしれないが、進んで切羽詰まりたいとも思わない。結果として切羽詰まるなら仕方がないのだが。

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