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小学校教員の道ではなく新卒でNPOを選び、3年目で広報になった話。

はじめまして!わたくし、くまこと申します。

どんな方が読んでくださるのかなとドキドキしながら、職場へ向かう電車の中で書いています。

自由気ままに、仕事のこと、自分のことを書いてみようと思っています。

■くまこのプロフィール
・菅田将暉の奥様、小松菜奈さんと同じ1996年生まれ
・青森県の訛りが強めな地域出身
・県内の高校卒業後、仙台の大学で教育学を学ぶ
・小学校教員/特別支援学校教員免許あり
・2019年新卒で「放課後NPOアフタースクール」に入職、現在3年目
・好きなものはラーメン、韓国、動物、天日干ししたての毛布の匂い
・身長168cm

教育実習をきっかけに終わり・始まり

大学3年生のときに、母校の小学校に5週間の教育実習へ行きました。全校児童100人ほどの小さな学校ですが、そこで私は教員の多忙さを目の当たりにしました。

そもそも、学校の先生になろうと思ったのは「子どもが好き」「親も安心の安定した職」「恩師に恵まれたので、私もそういう存在に!」といった思いからでした。ただ先生は先生でも、学習指導要領に従って教科書通りに授業するのではなく、それ以外のこともおもしろおかしく教えられる、子どもの心を忘れない「ちょっと大きいだけの子ども」みたいな先生になりたいと思っていました。

例えば「ハードルを跳ぶお手本を見せてやる」と言って50代にも関わらず本気で跳んで転んで、足を骨折し、周りの大人から叱られる先生とか、「今日から皆さんのお友達です」と言って全校朝会にヤギを連れて来て、そのまま飼っちゃうとか。先生らしくもありどこか子どもらしい先生に憧れていました。

実習でご指導くださった先生は、私に子どもがいたらぜひ担任の先生になってほしい!と懇願するような、本当に素敵な方でした。でも影では、夜中の3時に起きて学級だよりの作成、採点、授業の準備。そのまま出勤し、定時を超えて勤務することもあると。ご家庭もあるのにと心底心配になりました。

教育学部を選んだときから、教員の激務に関しては耳にしていましたが、いざそれを目の前にし、22歳の新卒の自分に置き換えたとき、憧れの先生像を続けられる自信がありませんでした。私の場合は「今は」先生にならない方がいい、そう思ったのです。

実習中、ある問題が職員室の先生方を困惑させている場面に居合わせました。

―― 学校では楽しそうな子どもたちが、放課後になると荒れている

小学校の中にある8畳ほどの部屋で、10人近くの異学年の子どもたちが放課後の時間を過ごしていて、宿題かトランプなどの簡単なボードゲームしか選択肢がなく、校庭でも遊ぶことができない環境のようでした。

「あれ、私が過ごした放課後ってこんな時間じゃなかったよな…」

これを一つのきっかけとして、わたしは今のNPOに入職しました。

NPO入職 学童勤務の2年間

地元の教員採用試験を受けていましたが、東京に本部のある「放課後NPOアフタースクール」というNPO団体への入職を決めました。1都3県で放課後事業を展開し、地域や企業と連携して全国の子どもたちへも豊かな放課後を届けている団体です。

正直、東京という土地でNPOのお給料だけで暮らしていけるのかなど不安な面もありましたが、自分の中にある「やってみたい」がいちばんでした。

”いつかここでの経験を地元に持ち帰って、実習先で見たような放課後の現実を変えたい” “学校の先生は大学時代のみんなに任せた!私はちょっと放課後見てくるわ〜”

そんな思いでした。

両親は、近くで安定した職に就くんだなと安心していたはずですが、急に「東京のNPOで働きたい」と言い出した娘に戸惑ったことと思います。ごめんね。

2019年春「放課後NPOアフタースクール」に新卒で入職。新卒は私の他に4人いて、今では何でも話せて本当に頼りになる、自慢の同期たちです。

入ってからの2年間は、小学生たちが放課後に遊びに来る学校の中にある居場所「アフタースクール」(一般的に言う、学童保育や放課後子ども教室)で、子どもたちに多様な体験活動を届けたり、その現場運営について日々学びました。

子ども対応がうまくできずに失敗して仕事帰りに一人泣いた経験も、自分が企画したプログラムが思った以上に子どもたちに好評で、そこまでの準備の大変さを忘れてしまうような経験も、「足が速い=強い、かっこいい」が定着している子どもたちと元陸上部の私とで本気鬼ごっこをして、大人げないと半泣きさせてしまった経験も、現場運営でのチームワークについて悩んだ経験も、思い返すときりがないくらいの学びと思い出がたくさんです。

子どもたちと素敵なスタッフの皆さんと過ごした、語り尽くせない2年間の日々についても、ぜひお話ししたいのでいつか書こうと思っています。

3年目、広報へ異動 まさに青天の霹靂

青天の霹靂とは、地元青森の最高においしいお米の品種でもあるのですが、ここでは、思いがけない出来事の意味です。

2年間東京や千葉のアフタースクールで働いてきて、一人でできることも増え、やりたいことも見え始めていた矢先の本部広報へ異動。

「NPOの広報って何するんだ?」「私にできるのか?」「お便りとかチラシをつくるのは好きだけど…」「子どもたちと過ごせるの残り何日!?」「本部ってどんな服着ていけばいいんだ?」小さなことから大きなことまで、いろんな考えや想いが駆け巡り、人事発表から、4月の異動までの1ヵ月間は正直よくわからない感情になっていました。

がしかし、今はこうして広報になって9か月が経った私がここにいます。

広報としてのこの9ヵ月間

「あっという間だったなあ」「なんとか広報として動けていたかなあ」と振り返る12月です。

異動となったときに、2年間、私に寄り添い見守ってくださった先輩から、こんな言葉をかけてもらった記憶があります。

「広報っていうのは、いちばん団体のことを知っている立場だと思うよ。団体の意義や放課後の価値を伝え続けていく仕事。社会に私たちの想いを届けていってね。」

この話を聞いた時、何かふっと落とし込めた気がします。

これからは、放課後を応援してくれる大人たちを巻き込みながら、社会を変えていけるかもしれない。肩書きは違えど、その先に子どもたちがいることには変わりない。そう思うことができました。

どんな業務があるかもわからなかった広報という仕事。今では、私こんなことをしています!をしっかり言えます。(当たり前)

私は、放課後NPOアフタースクールの広報として、私たちが考える「放課後の価値や可能性」を社会へと発信しています!

今度はそんな今のお仕事についても、書いてみようと思います。

次回「わたしは教育系NPOの広報メンバー(仮)」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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