同志少女よ,敵を撃て!
去年の冬、本屋大賞候補作となった矢先に,ウクライナがロシアからの侵攻を受け、巷の話題をさらった小説をようやく借り、最終章まで一気に読み終えた。
文中の核となる言葉で感想をまとめたい。
※ネタバレを含むため、未読の方はご注意ください。
死にたいか、闘いたいか
肉親を失った悲しみと、殺した敵への憎しみと。
18歳少女が生きる望みを無くすとき、女兵士イリーナが放った言葉がずっと物語の根底に棲み続けている。
生きたいか、平和のために尽くしたいか
とは、なぜ問うてくれなかったのか。
生きるか死ぬか倒すか殺されるか、容赦ない極限状態の中,少女を生かすため自らも生きぬくための言葉だった。
教官兼兵士イリーナはじめ、登場する女性はみなたくましく、男よりも男前だ。その狙撃手の悲哀に何度も涙した。
何のために闘うのか
教官イリーナの問いに、訓練生はそれぞれの思いをもとに動機を告白する。
ウクライナ出身のオリガはコサックとしての誇りを取り戻すために、闘うと答える。
カザフ生まれのアヤは、少数民族としてソヴィエトに組み込まれた側。目的も標的もシンプルで、自我がブレることはない。
愛するひとを見つけるか、趣味をもて
目標を倒すことに成功し、勝利を手中にした、そのあと。どんな心境に到達するのか。
ある狙撃手は “丘の上に立っている”といい、
射撃によって研ぎすまされる精神、そして無我の境地を尊い、と感じるものもいる。
しかし、戦後はどうか。後遺症に悩ませられるのではないか。
その質問に、一流の女性狙撃手はこう答える。
ただただ深い。
愛するひとを見つけるか、趣味をもて
戦争は悪なのはもちろんだが、ものごとには表と裏の二面性がある。
同志の卑劣な行為を許せなかったら?
味方と思っていた同志が裏切ったら?
敵の狙撃手がいいやつだったら?
自分側だけでなく別の相手側からも考え、戦後の世界をふかんで見ることができるよう、現代の私達は努めなければならない。
話は変わるが、
わが娘の親友は、ロシアにルーツをもつ女の子。学部は違えども共通の講義はいつも並んで受け、一緒にランチを食べ、恋バナや音楽の話、おしゃれ談義など、二人で笑い転げ、ずっとおしゃべりが途切れることがない。
ふと、セルフィマがいまの時代に生まれていたなら、どんな人生を歩んでいただろうと妄想する。
アヤやオルガやイリーナ隊長達とも出会わず、生死を分ける前線に出ることなく、村で結婚していた? わからない。
世界がどうか平和になりますように
世界がどうか平和になりますように
戦争を知らない私は祈るだけ。いや行動を起こさなければ。第二次世界大戦の過去は変えられないが、未来はこれからだ。
#同志少女よ 、敵を撃て
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