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当事者から語るということ

こんばんは。

本日はこちらの件で学校に行かせてもらいました。

「いじめを受けた子の母親」という立場で話をさせて下さいと学校側にお願いをして、先生方から許可を頂いたので、学校に行き、息子と同じ学年の子全員の前でお話をさせてもらいました。

結論としては、犯人は相変わらず出てきませんが、児童の前で話して良かったかなと思っています。

心配しているというメッセージを下さった方、似たようなつらい体験をされた方、応援していると背中を押して下さった方たちにこの場をかりてお礼を伝えたいと思います。

皆さんのあたたかさが私のはげみになりました。そしてその力が息子を包んでくれる勇気になりました。非常に感謝しております。まことにありがとうございました。


ここからは興味がある方だけお付き合いください。

本日の記事の題名について少し考えてみたのですね。

本題に入る前になぜ私は

「児童の前で話をさせて下さい」

なんて言ったんだろう・・と自分で行った行動の振り返りをしていました。

大変明確な理由として、1つは、この問題が解決できないままうやむやで終わってしまうような気がしたからです。

先生は「筆跡では犯人がわからなかったです」「いじめに関しての道徳の授業をして取り組んでみました」と電話口で話されたのですが、そのことばを遮るように「私が話をしに行ってもいいですか?」と気づいたら志願していました。自分でもなんでこんなことを口走ったのか、話している自分にまたおどろいてしまった訳ですが。 

きっと、この時は直感や本能レベルの判断だったんでしょう。
先生の話している雰囲気や内容から「今後はまたこの問題について取り組んでいきます」ということばを結語として、いじめ問題を一旦終了としたかった雰囲気を私は勝手に感じてとっていたのかもしれません。(先生はそんなつもりではなかったと思いますが・・あくまで私が感じていただけのような気もします。)

私はこの話がここで終わってしまうことに非常に危機感を感じていました。

終わらせてなるものかという気持ちに支配されていました。

再犯を防ぐための対策としては、今一つもの足りなさも感じてしまいました。


もう1つの理由としては当事者性の問題です。

私は今まで出会った当事者たちに「当事者としての声を上げてもらいたい」とけしかけていました。

それは、私が当事者じゃないから、気持ちを100%理解してあげられないこと。
代わりに声を上げても、100%の気持ちではない声はどこか偽物のような空虚なものになってしまう可能性が高いこと。
代わりに声を上げることで、マジョリティ側が自分自身がいいことをしているような気分になってしまい、当事者たちの根本的な解決は図れないことが多いこと。

たくさん理由はあるのですが、障害を持たれている方、マイノリティな立場である方には社会の仕組みがうまくいっていないことに関して声を上げてほしい、1人が大変なら一緒に声を上げよう、サポートするよと懸命にお願いをしてきました。(特にバリアフリー関係は利用者さんを巻き込んでいろいろやってみました)

そんな事をお願いしている立場であった私自身が「今声を上げなくてどうするの?」ですよね。

ここで「当事者」が声を上げることについて考えました。

(正確には私はいじめの被害者ではないので、当事者ではないかもしれません。しかし「被害者の母親」ということを考えると対象者は「私だけ」になりますので、そういった広い範囲では当事者であると言えるのかなと思っております。)

当事者って声を上げるには「えいやっ」と勢いをつけるほど非常にパワーがいるし、上げたあとも心無いことでの関係性による傷つきがたくさんあるし、持続していくのって、時間も気力も時にはお金も必要だったりするのだと思うのです。

一番最近悩むのは「こんなことで?」っていうことば。

例えばいじめだったら「机に死ねって書かれたくらいで大騒ぎして」「もっとひどいいじめにあっている人がいっぱいいる」「私なんか、恐喝されたり、みんなの前でさらしものにされたり、死にそうになった」「僕の方が何百倍もつらい」という人がたくさんいらっしゃると思います。

「がん家族」にしてもそうです。私の夫は幸いにして病気が寛解しましたが「がん末期で見通しがつかない」とか「治療中でつらい体験をたくさんしている」とか「余命がいくばくもないと言われている」など、私たちよりもっともっと病状が進行していて、心を削るような毎日を過ごしている方は大勢います。

「被災者」もそうです。「生活困窮」もそうだし「シングルマザー」とか、「LGBT」とか「セクハラ」とか、みんな当事者の階層性があるような気がします。

当事者同士の分断って意外とあるような気がする。

「こんなこと」?

でも「こんなこと」はキリがないです。

いじめ問題については一番つらかったのは、いじめを苦に自殺してしまった人だと思います。

でも、亡くなった方は声を上げられません。

いくら本人に尋ねてみてもその声が聞こえてくることはないのです。


では、どのタイミングで声を上げるべきなんでしょう。


私は自分がつらいと思ったり、社会との違和感を感じたら、もう声を上げてもいいのではないかと個人的には思います。

「もっともっとつらい人がいる」と他人のつらさを抱え込むことは、つらさを感じているその人自身にはその瞬間には必要ないのではないでしょうか。


だから私は、批判も覚悟で今日は学校に行き、被害者の母親として以下の事を話しました。

大事な我が子に届いたメッセージが悲しいものであったこと。

もし息子から嫌なことをされた腹いせであるならば、きちんと本人に嫌であったことを伝えてほしいこと。

自分が同じメッセージを受け取ったら、私の息子がそうしたように抱え込まずに親や友達や先生に話してほしいこと。

「ことば」は人を生かすことも殺すこともできること(うちの職場の施設の高齢者を例に出して伝えました。)だからことばの重みを考えてほしいこと。

いじめ問題は悲しいことに現実的にはどこにでもあることです。

校長先生は私に会うなり謝罪をしてきましたが、これは学校側だけの問題ではなく、責任を押し付けあうものでもなく、みんなで抱えて取り組んでいくべきものなんだなと改めて今回の件で思いました。

そのためには、声を上げやすい社会に1歩1歩近づける勇気ある行動が求められているのかもしれません。

また、みなさんと関わる中で教えて頂けることがあったら嬉しいです。

読んで頂きありがとうございました。



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