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盆栽とネコのいる庭で

「ねえ、あなた盆栽いらない?」

「いいえ、けっこうです。私には手に負えませんよ。」


毎回同じやりとりだが、それは私たちにとって、なくてはならないいつものあいさつ。

***

車はメイン通りから1本入った静かな道の小学校のすぐそばにある、とある住宅へと向かっていた。石畳の駐車場は広く、およそ3台分の駐車スペースを有しているため、訪問車の軽自動車なら余裕を持って停めることができる。

私は車を停めて、広い敷地へ入っていった。

庭は綺麗に芝生が植えてあり、雑草は生えていない。
日当りがよく家は南側を向いている。庭のまわりには木を植えてあるので、表の景色は見えないようになっている。
奥に高級車がいつも一台停まっている。人気の外国産の電気自動車。


自宅へ続くコンクリートの道の横には様々な盆栽が置かれている。数は20個程度。みんなサイズが大きく、一番大きい物で1m位はありそうだ。ひとつひとつに迫力と世界観があり、盆栽達は私に何かを訴えかけてくる。
盆栽とは植物の姿をかりてその背景の自然や風景を感じるもの。鉢の中に大きな自然を映すものらしい。日本の懐かしい風景を盆栽の鉢の中に再現しているそうだ。四季の移り変わりで、盆栽は少しずつ違った表情を見せる。とても美しく時には儚い姿を見せる盆栽達。ここにあるものはおそらくどれもがとても貴重なものなんだろうと思う。しかし、所詮素人の私にはその価値がよくわからない。

この家の主のご婦人はホースで水を優雅に撒いていた。
近づいて来る私の気配に気づく。
「あら」
「今日その日なのね。忘れてた。」

「そうなんですよ。水やりですか?」と私は聞く。

「水やるのも面倒くさいのよね。主人が好きだからってたくさん買っちゃって・・。息子が水をやらないから、結局私がやるしかないじゃない?」

「そうですよね。大変ですよね。」

「ねえおたくいらない?これ?」

「だから、毎回言ってますけど、もらえませんよ。こんな価値のあるもの。私が枯らしちゃうのもったいないじゃないですか。」

「そうね。でも、困っちゃうのよね。」

ご婦人はそうつぶやきながら、水やりをやめて家に私を招こうとする。
家へ向かうと、玄関の近くの芝生の上でグレーの毛並みの良いネコがごろごろと居心地良さそうに寝転んでいる。

日が当たって気持ち良さそうだ。

「また、来てる。この子は案外綺麗なのよね。」

「食べるかしら。」とご婦人は家から小さな袋を持ってくる。

袋には何やら達筆な字で「箱根神社」と書かれていた。

「ほら食べなさいよ。ご利益があるかもよ。この前もらった箱根神社のかつおぶし。」

かつおぶしにひかれているネコは野良猫のため、私たちを警戒していてすぐには寄り付かない。私たちが家に入るとネコはようやくかつおぶしに近づき食べ始める。

「おー食べてる食べてる。食べるとすぐどっかいっちゃうのよ。みんなそんなもんなのよね。」

私はこのご婦人の訪問リハビリテーションをするために毎週訪れている。
依頼は息子さんからだ。ご婦人と同一敷地内の別宅で一緒に暮らしている息子さんは国の仕事をしているため、とても忙しく、遅くまで家に帰らない。そして父親であったご婦人の亡き夫も同じような仕事をしていた。

息子さんは母が認知症になる一歩手前の状態であることを心配されており、うちの施設へ依頼が来た。私はそのような立場のある方の奥様であるということは事前情報で聞いていたので、最初は私が関わる事について心配をしていた。

いわゆる「お高くとまった人たち」というイメージ。そして、何でもしてもらうのが当たり前で、人を人とは思わないような人を使うのが当たり前の感覚。

完全にお金持ちの人や立場のある人への偏見である。

そんな人だったとしたら、どうしよう。

私はどんなに偉い人でも比較的態度を変えない方である。変えない方というか変えられない。人によって態度を変えてしまう自分が好きではない。頑固なポリシーというか面倒くさい性分だ。
肩書きはどうでもいい。その人自身と出会いたい。

だから変にあげつらったり持ち上げたりはできない。

しかし、関わってみると彼女はとてもいい意味で「普通」であった。

「普通」だが、洗練されていて上質。
習い事をたくさんされていたので、自宅にはたくさん彼女の作品(主に絵と書道)が飾ってある。そして窓がたくさんある部屋にはいつも暖かい日差しが差し込んでいて、外にいるネコと盆栽がそのまま庭に存在している。ここは彼女の楽園なのだ。そして、この楽園と共にとても人さみしい人生を送ってきた事を会話の中で匂わせている。

夫の仕事で社交的な振る舞いを求められることも多かったのだろう。たくさんの知り合いがいるが「〇〇さんの妻」という肩書きで接している人も多かったに違いない。そして今度は息子さんがそのような立場のある仕事をされているので「◯◯さんの母」という目で見られる。

彼女自身に対して肩書きにとらわれず「個人」として接してる人はどれくらいいたのだろう。それがいいか悪いかはわからないが、そのような役割を求められる生活というのはやはり寂しさを感じる瞬間があるのではないかと私は想像する。

「私の頭はどうなんだろうか。」と時折さみしくぽつりとつぶやかれることがある。

私は「あなたはあなたの素敵なところがたくさんあります。例えこの先、これ以上記憶力が悪くなったとしてもあなたが損なわれることは決してないです。」と伝える事にしている。

そうすると少し安心したような、やはりどこかさみしそうな複雑な表情になる。どんな人でも、さみしさはある。記録力が低下するというのは老化による自然の摂理ではあるが、さみしいという感情は例えどんなに幸せな環境でも誰しもが抱え込んでるものだと思う。それを関わる中で忘れないようにしたい。そして、必要な時には変わらずそばにいることを伝え続けたい。

そして、私が家を立ち去ろうとする時、また彼女はいつものことばを発する。

同じ事を何回も聞くのは、最初は認知症だからなのか?と思ったが、聞く時にご婦人はとてもいい表情をしている。だから、これは確信犯なのかもしれない。私が断る事を知っていて私で遊んでいる?。
もうこの際、認知症だとか認知症じゃないとかはどうでもいい。
私が望んでいるのだ。
私がこのやりとりをいつも待っている。

「ねえところで盆栽はいらない?」

私は決まってこう言う。

「いりませんよ。また来週会いましょう。」





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