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まかないはナムルご飯で

もやし

庶民の味方である

「もやし」

もやしとは固有の植物の名称ではなく、豆類などの種子を暗所で保温・保湿して発芽させ、育てたものの総称です。
もやしを漢字で書くと「萌やし」となり、「芽が出るようにする、芽を出させる」という意味の「萌やす」という言葉に由来します。言葉どおり、発芽させたものという意味です。

教職員生涯福祉財団のホームページより

芽が出るようにする
芽を出させるという意味の「萌やす」

へぇへぇへぇ、と

へぇ〜ボタンがあったらおそらく連打してるところだが(←トリビアの泉という昔の番組の影響)

最近、時々料理や食料品の買い物をしてくれるようになった夫が

「ねえ、もやしって安いよね」

と言い始めた。

そうだ、もやしは安いんだ。今頃気づいたのか!とは、言わなかったが、何度でも声を大にして言いたい。

もやしは安い。

私の娘は小さい頃からもやしが好きだった。
なので、お味噌汁に入れたり、炒め物に入れたり、焼きそばに入れたり、子供のご飯の鉄板メニューとしても非常に重宝していた。困った時のもやし頼みだ。

そんな我が家でも出現頻度の高いもやしさんだが、私はもやしはナムルにして食べるのが一番好きなのである。

ナムルは、朝鮮半島の家庭料理の一つで、もやしなどの野菜やゼンマイなどの山菜、野草を塩ゆでしたものを調味料とゴマ油で和えたもの。またそうした食用の野菜、山菜、野草のこともナムルという。

wikipediaより引用

作る時は、ほうれん草もセットで買ってくる。二つとも程よく茹でて、水気を切る。

ごま油、すりおろしたにんにく、塩、胡椒を混ぜれば出来あがり。

すごい簡単。しかもしばらく保存もきく。

多めに作っておいて、タッパにいれて何日か楽しむのがいい。

まずはそのまま食べる。
私はナムルが大好きなので、ご飯いっぱい分くらいはこれだけでいけてしまう。
そして、これは夫のお酒のおつまみにもなる。
焼肉なら肉と一緒に食べてもいい。
キムチなんかとも合う。
余ればビビンバに移行したっていいと思う。(ビビンバも好き)。
鶏ガラのスープに入れてもいい。

私がこんなにナムルが好きになったのはあるきっかけがある。

それはとある焼肉屋さんでの出来事。
その焼肉屋さんの話を今日は書いてみようと思う。

昔、私の実家の近くに一軒の焼肉屋さんがあった。
ある日、家族でその焼肉屋さんに行って外食をすることになった。

その焼肉屋さんは、1人のおばちゃんがほぼワンオペでやっているこぢんまりとしたお店であった。お客さんもそんなに多くはなく、その日は、うちの家族ともう一組お客さんがいる程度だった。おばちゃんは忙しそうにせかせかと働いていた。

私はその頃高校を中退したばかりで『なんでもいいから、何かアルバイトをしたいな』と思っていた。そのことを覚えていた両親が、忙しそうなおばちゃんの様子を見てほんの気まぐれに声をかけた。

「うちの娘、アルバイト先を探しているのですが、よかったら使ってやってくれませんか?」

おばちゃんは

「いいよ」

とすぐさま快く返事をしてくれた。

「初めてなんで頼りないですけど」

と両親はおばちゃんに挨拶をしている。

ええー!私ここでハタラクデスカ?!
と周囲の大人たちのテンポについていけなかったが、あれよあれよという間に、どうやら私はここで働くことに決まったらしい。

千と千尋の神隠しの千のように
「ここではたらかせてください!」
と初めてのアルバイト生活が始まる。

くま、齢17歳の出来事である。


アルバイトの時間はお店の開店する18時の1時間前、17時からのシフトとなった。終わるのは未成年なので21時。

まず、服装。おばちゃんに「服装は適当に普段着でエプロンをしてくればいい」と言われたので、私は母親に黒いエプロンをかりて持参した。

飲食店やサービス業系のアルバイトというと、決められた制服があったりして、思春期真っ盛りの私は若干そんなものにも憧れたりしたが、いきなりこんな感じである。

私はてきとーにいつも着ているTシャツとジーンズで出勤し、そしてその上になんの変哲も可愛げもない黒いエプロンをつけていた。

そしてあろうことか当時はショートの金髪頭であった。

金髪のでかい女は、夕方ごろにのそのそと自宅から歩いていって焼肉店に向かう。

だいたいその頃にはお店の入り口も空いているので、無言で勝手に入っていく(その時間はおばちゃんもいなかったので挨拶をする人もいない)

タイムカードもなかったので

「さ、始まるぞ」

と思ったら仕事の開始である(今考えてもかなりテキトーである)

仕事は店内の掃除から始まる。

おばちゃんから「目につくところは掃除しておいて」と言われていたので、そのまま目につくところを掃除する。

具体的にどことは言われなかったので、ひとまず私は上の方から順番に取り組んだ。まず、店内の窓ガラスを拭く。店内の窓ガラスは透明なものからすりガラスまで、大小様々なところにあったので、自分で順番を決めて拭いていた。私は窓ガラスは父親に昔から掃除のやり方を教え込まれていたので、透明なガラスはかなりピカピカに拭くことができる。

そして、次はテーブルを拭く。
お座敷の畳を拭く。
椅子座席の椅子を拭く。
床をはく。

そんな調子でゆっくりやっているとあっという間に30分くらい経つ。

そしてこのあと、後述するまかないをいつの間にかお店にあらわれたおばちゃんと食べて、開店の18時になる。

しかし、客は来ない。

このお店はそれほど、お客さんが来ないお店だった。けれども一応18時になればフロアで立って待機する。

店内のテレビは夕方のニュースを映している。

私はそれをしばらく遠目でぼーっと見る。

あんまりぼーっとしているとおばちゃんの機嫌が悪くなってくるので、また自主的に掃除ができる箇所を探して掃除し始める。

掃除は長くしていると、徐々にきれいにするところがなくなる。私はさっきも拭いたはずの窓ガラスを見つめて『早くお客さん来てくれないかなぁ』と思う。掃除に飽き始めるのだ。

そこへ救世主のようにお客さんがやって来た。挨拶をしてテーブルにご案内する。お冷やとおしぼりを持っていく。メニューを渡す。

しばらく待機して呼ばれたら注文を聞いておばちゃんに伝える。あとはできたものをお客さんに運んでいけばいい。

初めてのアルバイト、そんなに大変じゃないなぁと私は思った。

そりゃそうである。どう考えてもお客さんが全然来ないので、余裕なのだ。でも、当時の私は初めてなのでその加減がよくわからない。

唯一大変なのは、お客さんが帰ったあとの鉄板の掃除。焼肉屋のこげた鉄板の汚れというものは相当な頑固ものである。たわしでがしがしがしがししてもなかなか落ちない。

私はその作業で爪の中が黒くなることがなんとなく嫌だった。

こんな閑古鳥がなくようなお店でも、時々めずらしく混雑してくる。その時は私もおばちゃんも忙しくなる。

でも忙しい方があっという間に帰る時間になるので、私はどちらかというと適度に忙しい方が好きであった。

お店は飲み屋やスナック街の並びに位置していた。時々材料をきらしてしまうとおばちゃんは「あそこに行ってもらってきて。電話はしとくから」とおばちゃんの親戚がやっている徒歩10分くらいの場所にあるラーメン店に、私をおつかいに行かせる。

私は夜道をとことことこと歩いた。そして頼まれたご飯や野菜をお店に取りに行った。道中では時々きれいな格好をしたご出勤のお姉さんや酔っ払ったおじさんが通り過ぎる。細い道で車は通らない。電灯も少なくあたりは暗い。

その日の服装はTシャツで短パンだった。金髪メッシュの頭には肉体労働者のようにタオルを巻いていた。Tシャツは腕まくりをして肩を出していた。

とても、暑かったのだ。

夜道でおじさんにすれ違った。


おじちゃんは一瞬びくっとして


「なんだ女か!」


と捨て台詞を残して通り過ぎた。


『そうだよ、女だよ』

と思った。
まあ、こんな格好をしていてしかも身長は170cmあるのだから仕方ないか...とその時思った。


逆にこんな格好だからこそ、色々と都合がよかったことは思い返せばあるのだと思う。

焼肉屋さんは1階に店舗があったのだが、2階はテレフォンクラブのお店があった。(今はパソコンやインターネットの普及により見かけなくなったが、当時は電話を介して女性とお話しするお店があった)

私もお店の仕組みについては何となく知ってはいたのだが、あまりどのようなものなのかは実物を見たことがなかった。(もちろん利用したこともない)

そのお店の従業員から時々「焼肉弁当」の注文が入る。

私は電話で何人分必要なのか確認し、おばちゃんへ伝える。

おばちゃんは急いで肉を焼き、ご飯をつめた容器の上にたれをからめた肉を置いていく。

「はい、できたから持っていってちょうだい!」と言われ、私は2階のお店にお弁当を届けに行く。

初めてドアを開ける時は若干緊張したことを覚えている。一呼吸して重い扉を開く。

店内は照明がほとんどついておらず暗かった。なので、室内がどのようになっているのかは正直よくわからなかった。ただ、男性が座っているなぁというのは認識できた。私はすました顔で従業員にお弁当を渡してお金を受け取り、お店に戻っていった。

この時も男性と間違われるような格好だからこそすました顔でやり遂げられたのだと思う。

さて、まかないのことについて話を戻していく。

夕飯のまかないは、おばちゃんが毎回あじの干物を焼いてくれた。その横のお皿にたくさんのナムルを乗せて食べさせてくれたのだ。

私はナムルを本格的に食べるのが、人生で初めてであった。

とても美味しいと感激した。

おばちゃんの味付けは絶妙だった。いくらでもおかわりしたいと思ったし、野菜をこのように美味しく食べられるのだなと自分の中での発見があった。
私は毎回ニコニコしながら食べていたと思う。
そしてそんな私を見ているおばちゃんもニコニコとした表情をしていた。

お店は私の他にもう1人パートさんが入ることがあった。

彼女はおばちゃんと同じ年くらいのおばちゃんで、店長のおばちゃんのパンチの効いた風貌と変わって、穏やかでエビス様のようにいつもニコニコとしている人であった。

そして彼女はほとんど韓国語しか話せなかった。
私は彼女と充分にコミュニケーションを取ることができなかったが、お互いの雰囲気やジェスチャーで何とか協力しあって仕事を助け合っていた。

お店が暇な時に彼女が韓国語を書いて教えてくれたのを覚えている。

有名な挨拶の「アンニョンハセヨ」も実は、韓国ドラマなどが流行る前に私がパートのおばちゃんから覚えた韓国語の一つである。

パートのおばちゃんはまかないを食べる前に、毎回袋から薬を取り出して飲んでいた。その袋に書いてあったハングル文字が、私はやけに印象に残り、今でも目をつぶると写真のように浮かんでくる。


ナムルを食べると、当時のことをたまに思いだす。

お店は何ヶ月か働いたのちにお店自体が閉店になってしまった。今はもうお店の建物自体も残っていない。パートのおばちゃんはあれから韓国に帰ってしまったと風の噂で聞いた。ずっと地元に住み続けている私は、時々その場所の近くを通ることがある。

私はあのパートのおばちゃんとことばが通じないながらも、お互いに思いあえる空間が好きだった。

芽が出るようにする、芽を出させるように。

私はあのお店で彼女たちにまさに「萌や」されていたのかもしれない。

私を形作った思い出の一つは、ごま油の味と共に蘇ってくる。

国を超えてどこかで生きていたはずのあのおだやかな笑顔を、私は決して忘れることはない。

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