それぞれの「自立」
リハビリテーションにおいて、目標とされやすい「自立」
自立[名](スル)
1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式のパネル」(goo辞書より)
特に生活動作については、本人は人に迷惑をかけたくない気持ちから、家族はなるべく自分でやってほしいため「自立」させてほしいとの要望が多く聞かれる。
「1人で歩けるようになる」
「1人でトイレへ行けるようになる」
「生活を自立させる」
これらは患者さんが病院を退院する上で、目標とされやすい。
じゃあどう頑張っても1人でできない人はどうしたらいいのか。
障害のある人はいつまでたっても「自立」できないのか。
soarの記事に、私が普段思っている事がそのまま書いてあった。
翔子さんはダウン症で、生まれつきの知的障害があります。言葉でスムーズに話すことは得意ではありませんが、表情やボディサインでコミュニケーションをとり、人を喜ばせることが大好きだといいます。
自転車を走らせて商店街で買い物をして、料理をつくって食べる。掃除や洗濯などの家事も自分でこなす。翔子さんは地域の人たちに支えられながら、この街で5年前から一人暮らしをしています。
ダウン症のある翔子さんは1人暮らしをしている。
彼女はどのように「自立」しているのか。
親である泰子さんは、最初から1人暮らしに賛成していた訳ではない。翔子さんが1人暮らし宣言をして生活がスタートする。
上手くいかなそうな1人暮らしは地域の人々によって支えられていた。
今では商店街には翔子さん顔なじみの地域の人たちがたくさん。困っているときは誰かが助けてくれる、翔子さんを囲んだコミュニティができています。
ゴミ出しを教えてくれるマンションの住人。行きつけのカフェのスタッフ。商店街の店員さん。みんなが彼女を支え、そして彼女がみんなも支えている。地域のつながりによって生きている。
翔子さんが現在築いている「自立」の形は、「地域の人に支えられ、助けてもらいながら生きること」。一人で完結するものではありません。これは、孤独のなかで子育てをしてきた以前の泰子さんには、まったくイメージできなかったものでした。
人はいつも100%元気でいられるわけではないし、一人ですべてのことをうまくやれるわけではありません。障害の有無によらず、「自立」とは「誰にも頼らず一人で生きていく」ことではなく「頼れる先を増やして、周囲に支えられて生きること」なのだと思います。
「自立」とは依存先を増やすこと
それは体も生活も心もだ。
人間は1人で生きられない。
たまに出会うわたしが苦手なひとたちは
親から離れて仕事や家庭をもって立派な「自立」した人間だと思っている。
全て1人でできていると勘違いしている。
「お荷物の障害者をなぜ私たちが配慮して助けなければいけないのか」といった優性思想。
強い私たちが弱い人たちの面倒を見ている?
果たしてそうなのだろうか。
私たちは高度消費社会、サービス社会の中で生きている。
自分たちの身の回りの、育てること、看護すること、調理すること、ゴミを捨てること、作ること、治安を守ることなどは行政や民間のサービスによって行なわれている。
わたしたちが安心して過ごせる毎日は、必ず誰かの手によって作られている。
大昔には全て自分でやっていた自活能力を捨てて、様々なサービスを受けている事を自覚しなければならない。
社会の中で「1人で生きている」と言い切るのは間違いだ。
人によって受けるサービスの内容や量が違うだけだ。
それは健康だって、障害があったって、こどもだって、お年寄りだって、男性だって、女性だって、みんなが違うだけだ。でもみんなが受けているのだ。
自分が依存している先をまず自覚する。
たくさんの人に支えられていることを知った時に、他者の視点や生活が入り、他人ごとが「自分ごと」に変わる。
そして積極的に関わりをもって自分のコンテクストを作っていけるのではないかと思う。
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