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ツバメが飛んだ日、旅立ちの日

ツバメが飛び立った。

私の自宅の玄関には玄関灯がついている。
玄関は2m四方の屋根のあるスペースがあり、側面や天井は木でできている。色は黒の塗料で塗られており、ややシックで重たい印象を受ける。床面はコンクリート素材だ。薄い鼠色のようなグレーで20cm単位で5mm程の線が入っており、玄関掃除をする時にその線の溝に砂がたまりやすいため、ほうきを縦にして掃き出している。玄関灯は玄関を出て右側の高さ2m程度のところについている。

玄関灯はマリンランプで形は丸長く、上に10cmくらいのスペースがある。その空いている隙間に昨年のツバメは巣を作ったのだ。

ツバメが飛び立ってしまったあと、私と夫はその空っぽになった巣をどうしようかと話しあった。同じように自宅にツバメの巣ができたことのある利用者さんから「残しておくとまた来年ツバメが住み着く可能性が高い」と聞いていたため、「それならばまた来てもらってもかまわない」と何となくことばにしなくともお互いの意見は一致していたので、さほど長考せずに残すことに決まった。

さて。そんな訳で。

今年もツバメはどこからともなく現れた。
昨年より随分早い季節に彼らはやってきた。
彼らは、完成している巣を見つけて「これはちょうどいいなぁ」とか「ちょっと狭いけど贅沢は言ってられないなぁ」とか、思ったのか思わないのかはわからないが、ひとまずはその巣に入り込んでいったりきたりを繰り返していたので、気に入ってくれたのだと思う。

昨年は巣自体もなく、ツバメが巣を作ることがはじめてであった。2羽のツバメ夫婦はいったりきたりを繰り返しながら、うちの玄関灯の上に泥やら枯れ草やらを健気にせっせと運んでいた。そうして彼らのマイホームは完成した。

今回はその過程は踏まなくとも良いので、しばらくすると1羽は巣に常駐するようになった。

この期間は卵をあたためているのだと予測される。そしてしばらくすると、うずらの卵より一回り小さいぐらいの卵の殻が玄関に落ちているのを息子が発見する。(こういうのを見つけるのはだいたい息子なのだ。彼は自然の変化にすぐ気づく。蜂の巣が家の側面にできはじめていることなどもいつも教えてくれる。)

そうして子供たちが生まれると、巣はとたんに賑やかになる。時折「チッチッ」「ピーピー」と鳴き声が聞こえてくる。

親が餌を運んでくると「ギャーギャー」と賑やかさが増して、せいいっぱい体を伸ばして餌を食べようと努力している姿が見られる。

頭から産毛が生えており綿毛のようにほわほわとしていてかわいい。目が開いていなくとも、親の気配がわかるのは大したものだと思う。

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うちの子供たちもツバメの事を気にしてよく観察をしていた。「大きくなってきた」「今激しく鳴いてるけど何かに襲われたりしてないかな?」など、何かと気にかけている様子が伝わってくる。

そうこうしているうちに3週間ぐらい経つと、雛鳥たちは体がすくすくと成長して、巣からはみだしそうな状態になっている。

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というか、完全に体がはみだしている。

それでも何とか収まっているのだが、見た目はどうにも窮屈そうである。そして私が玄関を行き来する度に目が合う。私は「どうもー」と会釈したり挨拶をするが、ツバメは変わらない表情でこちらを眺め続けている。

私たちが玄関を行き来する時は、近くの電線に止まっている親鳥が、決まった音色の鳴き声で必ず鳴き始める。

これは「警戒」を表す表現であると、昨年取り寄せた「野鳥の会」のパンフレットに書いてあった。

私たち人間は「警戒」すべき生き物であるのだとは思う。けれどもツバメは人の生きている近くに巣を作る。これはヘビなどの外敵から身を守るための生存戦略と言われている。

このあたりになんだかおさまりの悪さを感じる。玄関を出入りするたびに「チチッ」と高い声で鳴かれると「そうは言っても私たちも生活があるんだよな」とか何とか思いながら、こそこそと出入りをする。悪い事をしているようでもある。

巣立つのはいつも突然だ。

朝までぎゅうぎゅうとおしくらまんじゅうのように存在していたはずの雛鳥たちは、昼見てみるともういなくなっていた。

空っぽの巣を見つめる。

「あぁ、もう行ってしまったのだな。無事にみんな飛べたのだろうか。」

などと、感傷にひたっていると、夕方にはまた巣に戻ってきているのでずっこけそうになる。

「なんだ。まだ行かないんだね。」

どうやら旅立ちの日はまだ先のようである。

しばらく親鳥は子供たちに飛び方を教える期間があるようなのだ。

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これは昨年のツバメたち
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みんな電線に止まっている
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いっせいに飛んであたりをぐるぐると回る
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親は子供に教えているようである

この飛ぶ練習を3日間ほど続けると、巣立ちの時期になる。


別れはいつも突然だ。

空の巣に鳥たちが戻ってこない事を知って、いよいよ飛び立ったのだなと実感することになる。

「今頃どのあたりを飛んでいるのだろうか。」


終わりの瞬間はいつも終わりであることを教えてくれない。

以前コメント欄にも書かせてもらったが、うちの娘を最後に抱っこした日を覚えていないという話を夫とした。

娘は幼少の頃はよく抱っこをねだる子だった。そんな時は、夫が娘を抱きかかえたり、肩車したりしていた光景をいまだによく思い出す事ができる。

しかし、そんな娘も、もう中学2年生になって大人と同じくらいの大きさになった。

確実に「最後の抱っこの日」は存在していた筈だ。

でも、その時はそれが最後の抱っこの日だなんて思ってもいなかったと思う。

そう考えると最後の日はたくさんある。

最後にベビーカーを使った日とか

最後に食事を手伝ってあげた日とか

最後に母乳をあげた日とか

最後にオムツをしていた日とか

私はこれらの最後の日をしっかりと記憶に留めていない。

この最後の日がいつだったのか正確に日にちを思い出す事ができないのだ。


また、ツバメはきっと来年も来ると思う。

私たちは昨年と同様に巣を残すのだろう。


ツバメの成長を感じながら、私はこれから来たるべき子供たちの最後の日を、あとどれくらい経験するのだろうと想像する。

それは同時に私たちも親としての最後の日を確かに積み重ねているのだと思う。

いつか来る旅立ちの日まで、穏やかに過ごせる事。今はそれだけを願いながら、また日常を過ごしていきたいと思う。


昨年、ツバメたちの成長の様子を報告すると、くなんくなんさんと約束したのに、すっかり忘れてまして….今年もツバメたちが来てくれたので書いてみました。

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