あの日私たちは確かにビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンだった
「このあと行ってみようか」
夫が私の顔を見ずに横顔で話しかける。
パーキングに入れていた車を発車しようとサイドブレーキに手をかけていた。
「え!・・そうだね・・。」
予定通りと言えば予定していたことだ。
けれども
私は本当に行けるのか、これから待ち望んでいることが、実際に私に起こることなのか、いまだに半信半疑で実感が沸かない。
それは夢のような出来事であり、案外私たちにとってはできないことだ。
簡単にできる人はたやすくできてしまう。それはネコが高い所からヒュッと軽やかに床に舞い降りるみたいにたやすい。私たちは高い所でたじろいでいる犬のように、やろうと思っても右往左往してなかなかできないのだ。
私はこの日の午前中は、子どもの学童保育で我が子の演劇の発表を聞いていた。それは「たまごくんのものがたり」というタイトルで、我が子がシナリオを考えたものを支援員がアドバイス・修正し、学童の児童たちが演じたものだった。
私は子どもの成長を間近で感じて、月並みなことばだが非常に感動していた。
その余韻を引きずりつつ、我が子たちを祖父母の元へ預けた。
午後の予定は以前から計画していた事を実行する日だった。
<デートプラン>
▼夕方から中野サンプラザで映画の試写会&演奏会に参加する
(私の好きな山崎まさよしさん主演の影踏み鑑賞)
▼移動&食事
▼前から観たかったクエンティン・タランティーノ監督の「ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD」を新宿の深夜のレイトショーで鑑賞
▼夜遊び?
子どもがいると2人だけで外出することはめったにない。特に小さいころはハードルが高くなる。
だから「自分たちの楽しみ活動だけが目的で子どもを預けて出かける」といった事はまず不可能であった。
しかし、私の両親は今回の私たちのお願いに関して、快く引き受けてくれた。私の親も映画やライブに出かけることが大好きなので、気持ちを共有してくれているのが理由として大きかったと思う。
けれども、子どもというのはわからないもので、元気だったのに突然発熱することもあるし、怪我をするかもしれないし、信頼している両親に預けているからといって油断はならないのだ。
私は携帯電話を見た。
親からの着信はない。
でもやっぱり心配だ。
きちんと行儀よく過ごしているか。
喧嘩ばっかりしていないか。
何か体調不良はないか。
反対に親が具合が悪くなることはないか。
気になってしまう。
でも、今を楽しみたい気持ちもある。
不安な気持ちの私を乗せたまま、車は夜の新宿へ無事着いた。
映画館は大変すいていた。「ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD」は上映期間も後半に差し掛かっていたし、こんな0時過ぎの真夜中に映画を観る人なんて、都会と言えども少ないのか。
映画は非常に楽しかった。
夫はクエンティン・タランティーノ監督が好きだった。
私は夫と付き合いはじめてから監督の作品を観るようになった。
観ている間、結婚前や結婚したばかりのことを思い出していた。
あの頃は瑞々しくて、心が揺れて、共にいたくて、深夜のメールもたくさん交わして、コソコソしていて、お金もなくて、時間だけがあって、一緒に初めてがたくさんあって・・・やっぱり今とは違っていた。
でも今は今で、子どもの事を考えて、お互いの親の事も心配して、夫婦の会話も減って、いることが当たり前で、仕事の話ばかりで、メールも「帰るよ」くらいのそっけない内容になったけど、そっと家にいてお互いに肌になじんでいるこの空気感が私は嫌いじゃない。
ブラットピットは年をとってもかっこいいんだな。
ブラピは屋根の上に上り、修理作業をする。シャツを脱ぐ。たくましい腹直筋が見える。私は割れている筋肉を見て、思考が卵のようにぐるぐると攪拌された。
映画が終わった。
「ごめん。」
夫は私の方を振り向き突然謝った。
「年のせいか眠くなっちゃって・・年には勝てないんだ。」
私は「わかっていたからいいよ」とおだやかに話した。
夫が夜は起きていられないことは今に始まったことではないから。私は長い付き合いでそのことをよく知っている。
「ロスト・イン・トランスレーションごっこできなくてごめんね。」
ロスト・イン・トランスレーション。
私の好きな映画。
ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンが演じる2人は、たまたま東京で出会い、たまたま同じような孤独感を抱えていて、2人はお互いのパートナーに内緒で東京の街を派手なシャツを着て遊びまわる。
この2人が遊んでいるシーンがすごく印象的で、都会で夜遊びをしたことがない私には憧れがあった。
外国人が撮る日本の夜の景色が、見慣れた場所のはずなのに、どこか遠い異国のようで、なぜかアジアを感じて、私はとても好きだった。
今日の夜は「ロスト・イン・トランスレーションごっこ」をしようと私たちは何となく話をしていた。
でも、私たちは年を取ってしまったし、やっぱり子どもの事は気になるし、夫は夜起きていられないし、夜遊びといってもお互いクラブに行った事がないし、バーもどこに入ればいいかわからないし、映画のような夜景の見えるカラオケボックスが新宿のどこにあるかわからない。
だから最初から難しかったのだ。わかっていた。でもがっかりもしなかった。もうここまででも十分すぎるくらい私たちは楽しんだのだ。
「じゃあ、夜遊びはできないけど、ちょっとふらふら歩いて帰ろう。」
夫は私に手を差し出す。
久しぶりに手をつないで歩く。
私は普段着ないワンピースでヒールのある靴を履いて、ネックレスをつけている。
夫はジャケットを着て、お出かけ用の丸い縁の眼鏡をして、お気に入りの革のシューズを履いていた。
夜の新宿。
少し肌寒い夜風が、時折体をなでるように通り抜ける。
昼は騒々しい通りもこの時間は人影も少なく、話し声は聞こえない。
自販機のシューターへ缶が転がり落ちる音がどこからか聞こえる。
ハイブリッド車が静かに通り過ぎる。
道端に大きい体の若者たちが何をするでもなく、シャッターにもたれている。
信号がカチッと点滅する。
サラ金やファミレスのネオンがチカチカと遠くに見える。
手のあたたかみを感じる。
暗い夜道を、私たちは手をつなぎながら、なんでもないことを話して笑い合った。
私たちはあの帰り道。2人は確かにロスト・イン・トランスレーションのボブとシャーロットだった。
それは本当に短い道のりだったけど。車へ向かうだけの歩みだったけど。
スローモーションのように思い出される。
それは、夜空で控えめに瞬いている小惑星のように光を放っていて、いつもは私の胸の奥の隅にこっそりとしまわれている。
たまに見つめ返すと輝きはちっとも色褪せていない。
これは、私たちにとっては特別だが、他人から見るとなんでもない日の出来事だと思う。
でも、その輝きはこの先の道のりも照らしてくれるような、私にとっては私をカタチ作っている確かなものであり、私にとっての「恋」というのにふさわしいエピソードであるのだ。
みおいちさんのこの企画に参加させてもらいました。
ありがとうございます。照れます・・・。
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