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祖母とパズルあそびの記憶
先日祖母の記事を書いた反動なのか、祖母との思い出をたまに思い出すようになった。
祖母は私の養育者でもあり、私のよき遊び相手でもあった。
その遊びの中でも今日は
2人でパズルをした思い出について書いてみる。
パズルは最初は300ピース位から始まっていたような気がする。絵柄は決まってディズニーが多く、たまにジブリのアニメの物も混ざっていた。パズルのコツなんかはきっと今だったらネットで調べればすぐ出てくると思うのだが、当時はそんな情報は探してもどこにもない。だから今から書くことは私と祖母で話し合いながら、編み出していた方法だ。だから、多少非効率な方法かもしれない。けれども私たちはパズルの選手権への出場を目指していた訳でもなく(そんなものがあるのかもわからないが)遊びの範囲で子供と高齢者が行っていたことだから、その辺りを頭に入れて読んで頂ければ幸いである。
まず、箱から全てのパズルのピースを出す。
そして裏っ返しになっているピースを全ておもて面にひっくり返すことから始まる。この時の祖母はまるで子供のように目をきらきらさせて、目尻を下げて、なんとも言えないような、多幸感あふれる満面の笑みを浮かばせていた。
私がパズルで一番覚えている祖母の表情はこの時の笑顔だ。
まるでそれは宝物を開ける探検家のようでもあり、プリンセスが大切な花畑や宝石箱を見つけた時のようでもあり、その表情に少し純粋な幼さがあったのだ。
今、思い返せば、祖母の幼少期は戦時中であったので、あまり子供らしい遊びをしてこなかったのだと思う。大人になって私と遊ぶことはもしかして何かを取り戻す様な時間でもあったのかもしれない。
夢中になってひっくり返し、全てがおもてになったら、次は角っこを見つける、
四隅のピース、そしてその四隅をつなげる端っこの四角形の辺の部分。
見つけたら、それらを繋げていく。この時、パズルの箱の蓋に書いてある完成図とにらめっこする。ヒントは全てそこに描かれている。
「なるほど、このあたりはこの色が多いな」など当たりをつけて、自分のところのものを繋げたり、祖母のエリアの色であったら祖母に渡したりする。
あのパズルのピースがかちっとはまる瞬間。
パズルをやっていて一番嬉しい瞬間だ。
さらにそれがたまたま連続でスルスルっとはまっていくと、思わず祖母にその事を伝えたくなるくらい私は嬉しかった。祖母はうんうんと聞いてくれた。
さて、周りのピースが全て完成したら、今度は中の部分。
中は特に役割を決めずに各自好きなところをやる。その時も私と祖母は私たちなりのコツがある。
例えばディズニーのパズルだったら、キャラクターがいくつか描かれていると思う。そのキャラクターの顔は一部分のピースでも識別しやすいため、顔だけ集めて、いろいろなキャラの顔を完成させていく。ミッキーとドナルドは色が違うからわかりやすいが、グーフィーはミッキーと顔の色が似ているので要注意だ。
そしていろいろなキャラクターの顔だけが完成する。これはちょっと並べてみるとやや不気味な感じになる。みんな笑顔でこっちを見ている。顔だけだから奇妙な光景だ。
そこから今度は体があれば体のパーツを探して繋げていく。そして一つのキャラクターが完成したら、完成図を元に配置を確認する。そして先程の四角い枠のパーツの中にそっと置く。この時に、崩れない様に下敷きかなんかでシュッとすくい上げて、入れ込んでいたような記憶がある。下敷きがなくて手で運ぶと大きいキャラクターは少し崩れてしまい「あーあ」とお互いにがっかりとした声を出す。
そんな事を続けていくと、パズルはまあまあ収まりを見せていくので、あとはキャラクターの間のピースを繋げていくだけだ。
繋げていくだけだとは言ったが、ここがほどほどに難しい。特徴のないものが多いからだ。そして最後の山場でもある。
私たちは残ったピースを色ごとに何となく分けて、そこから手当たり次第、全くの勘だけで次々と当てはめていく。
そして完成。
終わる頃にはかなり時間が経っていた。
そして私が成長するとともにパズルのピースの数も500、1000と増えていた。
1000ピースになると、その日の時間だけではうまく完成できないことがあるので、机の上に放置しておくことになる。その時に、まわりの祖父や妹に「机の上に途中のパズルが乗っているから、がたがたしたり崩したりしないでね」と注意喚起をするのを忘れないようにしないといけない。せっかく作ったものが台無しになってしまうのはお互いに悲しい。
完成すると2人でパズルを眺める。
祖母はやはりこの時も嬉しそうだった。そして一定時間経ったら、またこのパズルをためらいもなくバラバラにするのだ。
私たちはパズルを糊付けして完成のままとどめておく事はしなかった。また、何度でも繰り返し遊びたいから、容赦なく始まりの状態に戻してしまう。
壊す快感が訪れる。
これも何とも気持ち良い。
私は祖母とパズルで遊んだのは小学生くらいまでだった。
中学生になると部活動などもあり、あまり一緒にパズルをやることもなくなった。けれでも祖母は一人でもたまにパズルを取り出して遊んでいた。
「あぁ、やってるな」とは思ったが、一緒にはやらなかった。
机に向かって静かにパズルを見つめている祖母の背中は、さみしくてたよりなくてどことなく心もとない感じがした。
私はもう少し一緒にパズルをやるべきだったなとも思うが、一方で人生とはそういうものなのかなと思う。
やり残したこと、悔いが残っていること、すぎてみれば幸せだったこと。
そういう未完成のものに支えられながら、それはまるで...いつまでも糊付けせずに未完成だったあの時のパズルのように、今日もまた私は不器用ながらも生きていくのだ。
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