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ハタラクを突き詰めた私の6年後。

大学生の時、ハタラクキャンプというイベントに力を注いでいた。端的に話すと、「ハタラク」ということを多方面から考えるイベントを作っていた。就活中(公務員試験期間)に出会い、たくさんの人と話すことを通して、私は自分の信じた道を一度はやってみるんだ。というのが当時の私の一つの結論。そのとき話してたであろうこと、近い未来に私がする選択のためにもう一回私にとっての「ハタラク」を考えたくなったので、徒然なるままに筆を執る。

「働く」を「ハタラク」とカタカナ表記するときには、労働だけを想起しそうな表現を避ける意があります。

固定概念

「大人になったら仕事をする」それは、小学校・中学校・高校を出て、大学に行くにしても行かぬにしても、その先は何かしらの仕事をして、自分で生活費を稼いで暮らしていく。誰から教えられたかもわからないし、環境が植え付けた固定概念なのかも知れないのだけど、少なくても15歳の私はそう信じていた。
そんな私が、たまたま中学2年生の時に「司法書士事務所で働く母の上司」と知り合い、これからどう生きていくかを考えたときに現実的に目指せる先として、この人みたいになりたいと勝手なロールモデルとしてみるようになり、司法書士になりたいんだ、そのためには法学部にいく必要があるんだ、うちにはお金がないから、学費の安い大学の法学部(国公立大)にいくんだと言い続けていた。

選んで行った高校は素敵な高校だった。勉強して大学に行きたいと努力する人の集まり。すごく個が強い人が多かったと思うし、私もそのうちの1人だったのであろう。大学に行くというのが当たり前の環境下で受験をし、結果としては法律が学べる経済学部で何がやりたいのか考えようという気持ちを持って進学することになった。

興味の移り変わり

大学で法学を学んだときに面白くないと感じてしまった。その時、司法書士に本当になりたいのかと考えた時の私の答えはNOだった。あの上司のようになりたいと思ったのは事実だけど、その時どんな仕事かとか考えてはいなかったし、「将来の夢」って何とかと聞かれた時に何か答えられた方が楽だから答えていたのに過ぎないかも知れないなと。(それだけでなぜ勉強できたのかは、別の理由があると思っているけどそれは今回は割愛)
この瞬間、大学を卒業した時にどうするかという自分の中のヴィジョンは無くなってしまったのである。その時一つ課題に思っていたのは「育ちの環境や親の収入状況で選べる選択肢が変わる」という教育格差の問題であった。一般的な就活をする中で、どう教育に携わる仕事をするのかというのを考えていた。

教師以外の教育に関わる仕事とは

勉強を教えるということをしたいのであれば、教師だったり塾講師だったりというのが当時の私の選択肢として存在した。勉強を教えるということをやってみたいという思いはあり、大学時代塾講師をすることはあったが一人ひとりに勉強を教えるということよりも、漠然と社会の仕組みだったり構造に問題があるように思えた。(あくまでここはなんとなくで、明確な課題が見えていたわけではない)そんな時であったのが、大阪府庁で働く1人のOB。自分が地方自治を学ぶゼミに行く予定だったこと、そのOBの方の話を聞いて自治体で働くという選択肢ができた。教育に関わる制度やお金を扱う現場で仕事するということを当時は志したのである。勉強するのは目的があれば苦が無い性格や、自立したい・リスク回避主義的思考が相まって「地方公務員」という仕事が魅力的に思えたのだ。

公務員試験とハタラクキャンプ

就職活動(公務員試験期間中)に京都で地域に根ざした仕事している人に会いたい、大人に話を聞いてもらえる場に行きたい、多分こんなことを思っていろんなイベントに参加していた時に行った北川さんのイベント「ぶっちゃけ」。この時出会った子の誘いを受けて行ったのが「マナビノバ西院教室(現:まなびのさき・なんかしたい)」ここで「ハタラクキャンプ」のミーティングがされていて、巻き込まれていった。色々悩んでいたけど、その時の私の一つの結論が、逃げずに目の前のことに向き合うこと。公務員試験を受けると決めて相応の時間と気持ちをかけてやってきたが故に、中途半端にするのではなく最後までやりきろうと。結果本当に行きたかったところではないけど、一つの自治体とご縁があってそこに就職することになった。大学卒業するまで「ハタラクキャンプ」の活動はしていた。正直今すぐ思い出せることはあまりない。それほど東京での5年間が濃かったのだと思う。ただたくさんたくさん「ハタラク」について話したこと、いろんな人のいろんな「ハタラク」に触れたこと。いろんな生き方があって、どれが正解とかないこととかを感じていたのではないだろうか。(会社で働く以外の生き方をする大人に多く出会えたのは今でも財産である。)

PaKT卒業宣言

PaKT(ハタラクキャンプをやっていた団体)の卒業イベントで話したことで一つだけ忘れられないことがある。それは「居場所を作って京都に帰ってくる」ということ。(一言一句このままだったかというとわからないのだけど、こんな趣旨のことを話した記憶はある。)不思議なことに理由があれば公務員を辞めて転職することが、就職時の選択肢にすでにあったのだ。公務員の世界ではなかなかに珍しいやつである。京都をよくしたい、地域を良くしたいを考える上で他の自治体を知ることは勉強になると思っていた。だからこそ自分が京都でこういうことがしたいと思った時が帰ってくる時だと思っていたし、それまでは東京で頑張ろうと思っていた。(この考え方が私に大きな苦しみを与えることを今の私は知らずに。)

そして、今東京で6年目の選択

私の中で大きな選択に迫られていた。生き方に関わる大きな選択。ゆくゆくは京都に帰ることを頭に置いて今後も今のパートナーと一緒にいることを選ぶか、今の仕事を大切にしたい東京でしばらく生活するために今のパートナーと別れるかといったものだった。京都でどうハタラクかを考える前に京都に帰る選択肢ができてしまったが故に苦しんでしまう。

辛いことも多いけど今の仕事には誇りを持っている。地方公務員として生活保護について3年、選挙で3年仕事をしている。目の前にお客様がいる仕事、マネジメントする仕事、分野も業務も多種多様なことをしていたが、目の前の問題に向き合い続けた結果、仕事における大きな「WANT」がいつの間にか無くなったのである。どういう生活をしたいか、どう生きたいかを考えることはあったのだけど、ハタラクということを考えていたということを頭から失うくらいに、どう仕事していくかを考えられなくなっていたのである。現状維持、流されるように仕事するということを選択しそうになっていたのだ。正直楽な選択肢なのかもしれない、流されたらどんだけ楽なんだろうと思ったこともあるし、想像以上に東京に順応していたのもある。どっちにしても選択、自分で選んだことなら後悔なく生きていける。そんな私の選択とは。

蓋をしていた自分の気持ち

目の前のことに向き合い続けるうちに見ないようにしていた「仕事において私がやりたいこと」。私にどう働いてほしいとパートナーに問うたときの答えが「やりたいことをしてほしい」「今の仕事に逃げてない?」「こんなことしたいとまっすぐ進むくっしーが好きだ」と言われ、わたしがわたしであろうと向き合い、選んだ選択肢を受け入れてくれるパートナーを大切にしたいと思ったのである。何をしたいとははっきりとみえない、それは見ようとしてこなかった期間が長かったからだと思うのだけど、その間にもいろんな時間を過ごして感じたことがあって、それを一つずつ紐解きながら、どうハタラクかは考えたいと思う。

わたしにとってのハタラクとは

大学生の時に出会ったハタラクとはの考え方で、二つ心に残っていることがある。ひとつは「誰かの居場所を作ろうとすること」もうひとつは「傍楽」。
近くにいるひとが過ごしやすいような場を作ることというのが共通項なのだろうか。(傍楽というのは場の名称でもあるのだけど、その考え方に共感しているからこそ、今でもふらっと行きたい場所になっている。https://hataraku703.com
この東京での数年を通して感じたことに、何をするかより誰と働くかの方が大切にしているということ、誰かのために何かをしたいというのが原動力であるということ。他人の努力を応援するのが好きなこと。目の前に人がいて、その人のために何かできることをしたい。この気持ちがとても強いことなどある。

仕事の対価がお金なのか、お金がないと生きていけないとは言わないが、お金が生活を易くし、手段としてのお金を大切にしている(自立心が人一倍強くお金を得ることへの思いは強い)からこそ、仕事をしてお金を得る必要はあるし、その仕事がなんなのかは向き合い続けないといけない。その仕事わたしが実際にしている行動が、わたしにとっての「ハタラク」の形になるように。

#私にとってはたらくとは

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