050 花を手向ける前にまず言葉を

時々、渋谷では時代を象徴するような事件が起きているように思います。渋谷という場所が呼び起こすということでしょうか。

渋谷暴動事件(1971年)は古すぎてボクが上京する前の話ですが、東電OL殺人事件(1997年)、新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件(2006年)、それに続く渋谷区短大生切断遺体事件(2007年)、シュプリーム中国人集団暴行事件(2018年)ときて、つい先日起きたのが、渋谷区のバス停で起きたホームレス女性殺害事件。

年中無休で店を開けていると、どうも世間の事情に疎くなってしまうのか、最初、このニュースを読んだ時、妙な違和感を持ったはずなのに、そのままにしていました。

ところが、奥田知志さんの論考(『論座』11/23「電源の入らない携帯電話がつながる日はあるか」)を読んで、ハッとさせられました。そうか、ボクの想像力、共感力が鈍っているってことじゃん、と。

想像力は創造力と違って、何もないところからは生まれて来ません。事実を知ることは勿論ですが、どれだけ多様な経験を積んでいるかも大切だと思います。人は知らないことには無関心・無共感になりがちだからです。ともすると、その意味に気づかないでスルーしてしまいがちです。

想像してごらん、と歌ったのはジョン・レノンですが、想像するためには、共感できるだけの知識と経験が必要です。

店で作っている常連向けのメッセンジャー・グループに是非一読してほしいと、奥田さんの記事を読んだ感想をつけて、この論考のアドレスを流すと、友人から即、

「宿題忘れた、テストできない=サボリ、と考えるのは想像力の欠如。隠れ貧困でバイトしないと家庭が維持できない生徒とか、発達障害の生徒とか、今の時代は安易な決めつけは要注意。それと同じ話題かな」という返信が。

そうか、いま学校ではそういうことが起きているのか。今さらですが、何十年も前に卒業して以来、ほとんど学校に行ったことのない身としては、想像力がそこまで働きませんでした。実に狭い世界で生きていますね。さらに反省させられました。

勿論、来店されるお客さんの話には耳を傾け、共感することが多く、出会った人や、そこで聞いた話、起きた奇跡のような顛末を、おそらく二度と来ないであろう人だけに絞って紹介しているのが、このnoteの連載です。でも、ボクが店に棲息する時間が長くなればなるほど、ボクは世間から疎くなり、想像力も、そして共感力も失いつつあるのではないかと、今さらながら気づいたというわけです。

お粗末でした。

もう一人、別の友人が、店の外にある禁煙所でタバコを吸っていたら、通りがかった外国人が一緒にタバコを喫いにきて、「日本は息苦しい国になった」と言っていたと返信をくれました。

ボクは彼女の健康を思って、量を減らせ、禁煙したらとよく言うのですが、もっとひどい言葉でなじられたり、排除されたことがあるそうです。

迂闊でした。

身体に良くはないと言われるアルコールをすすめるバルを経営していながら、友人にタバコをやめろと言って、(もち、身体のことを思ってですよ)、ほかでもっとひどいことを言われているなんて想像もしなかったよ~。

この国の不寛容の先に、どんな未来があるのだろう。ちょっと冷えてきました。体感温度の話じゃないですよ。心の中の話です。

これについては、11月28日(土)15時からの【小さな声で話そう】というイベントで、友人が自分の番の時、語ってくれる予定です。

国に何の価値も認めていないボクですが、この国に、この世界に生きる次世代には責任があると思っています。あの荒廃した敗戦国で、それこそ馬車馬のようになってボクたちを育ててくれた親世代の恩恵を受けるだけ受けて、自由だ平和だと、それをひたすら消費しつくして、はいサヨナラって死んでいくのは、あまりに都合よすぎるんじゃないかと思うのです。

ミッシェル・オバマは、世界から共感が失われているとしてトランプを批判し、カマラ・ハリスは民主主義は状況ではなく行動だ、と言っていました。日本の女性議員に期待するとして、あまり役に立ってこなかったボクたち男性陣は、せめて道の草刈りでもして、彼女たちや次世代の若者たちが歩きやすいようにしないといけませんね。

いきなり、ここで話は秋田の「いぶりがっこ」に飛びます。ええー?

ボクの店でお出ししている「人参のいぶりがっこ」は絶品です。秋田県大仙市で作られているもので、いぶした人参と米ぬか、食塩、砂糖しか使っていません。その美味しさと言ったら。。。

近所にある、仲良くしてもらっている漬物屋に行くたび、無添加・無着色のものを探して買い求めているうちに行き着いた逸品です。残念ながら、在庫が年中はないので、食べられる期間は短いのですが。

どうして美味しいものって、堪能できる期間が短いんでしょう。美味しい日本ワインも、すぐ販売終了になってしまうし。余市のリタファームのナイアガラをめぐる四苦八苦については前に書きましたね。

さて先日、二子玉川のマルシェで、別のいぶりがっこを見つけました。こちらは秋田県仙北市。無農薬で育てた大根をいぶしたものですが、米ぬかではなく、渋柿で漬け込んでいるといいます。これは、買うしかないでしょ!

しかも、話を聞くと、東京で売っているのはお姉ちゃんで、地元で作ってるのは妹。お父さんが食堂をやっていて、お母さんは別の場所で売店をやっているといいます。弟は販売を手伝いながら、ミュージシャン?

秋田県、凄いじゃん! いや、このご家族が、でしょうか。

即、「話食マルシェ」というイベントを一緒にと誘いました。それで、初めて知ったのですが、いぶりがっこって、干した大根を使うのかと思っていたら、採れたての新鮮な大根を使うそうです。だから、今が作業の真っ最中。ハイシーズンってわけですね。

いぶしてるところ、見てみたーい。

いぶりがっことチーズで日本ワインは如何? ほらほら、よだれが・・・

話し込んでいると、隣におばあちゃんが。

「是非、買っていってください」とボクが1本手渡そうとすると、「大好きで、前にも買ったけど、最近、歯が悪くてねぇ」だって。

煙でいぶすってことが癌のもとになる、という人もいます。焦げは駄目だとか、パンのグルテンがだめとか、、、いぶすから鰹節もダメってこと? そんなー。。。

ヴィーガンの外国人旅行客と一緒に店で豆腐を作った時、味噌汁は昆布だけで出汁を取ったけど、ペッペッぺ。。。ボクは鰹節と昆布の出汁がいいよー。自分が美味しいと思えないものを出すつまらなさ。ほんと、情けなくなりました。

人は身体にいいことだけして、生きてはいけないものだと思うんです。他人に迷惑かけなきゃ、多少のことは許されるはずだったのに、この許容力のなさはどうでしょう。こんなにギスギスしているのは、30年近くも多くの国民が不遇な時代を送っているからですね。経済だけでなく、心まで貧しい国になりつつあるってことか。。。

秋田で、家族でいぶりがっこを作って販売している家族もいるのに。そう思ったら、話を聴きたくなるでしょ。それは、ボクだけじゃないはず。

渋谷のバス停で殺害された女性は、半年前までスーパーで働いていたそうです。その後、ホームレスになって、人がバス停を利用しない午前2時から6時くらいまでの間、バス停で座ったまま眠っていたとか。他人に迷惑をかけないように、ひっそりと生きていたんでしょうね。

近隣でその姿を目撃していた人たちの誰かでしょうか、現場に花が手向けられていました。でも、彼女に声をかけたり、NPOなどに繋ぐ人はいなかったのでしょうか。

まず、「公助じゃなくて自助を」という草履じゃなくって、そうりがいる国ですからねぇ。彼の給料は公から出ているんじゃなかったっけ?

昔、バス停の椅子って、長椅子のような形をしていたのに、そういう人たちが横になれないように、いつからか、一人分のパーティーションで分けられたつくりになったそうです。

深夜から早朝までしか、しかも座って眠っているだけなのに、邪魔だと撲殺した男性は中年の引きこもりで、母親が一緒に警察に自首したそうです。

なんだか、事実が明らかになるたびに、心が寒くなってくる話ですね。こういう夜は、煙で温かく燻された「いぶりがっこ」でも齧りながら、一杯飲まなきゃ、、、って、店に誘っているわけではないですよ。

12月5日(土)15:00からの「短歌好きあつまれ」では、ボクは

この世界に未来と共感を

をテーマに選んだ、ボクの好きな歌人の歌を紹介したいと思っています。共感を捧げられなかった、鈍感になりつつある自分への戒めとして、未来を歌った短歌を、これから2週間かけて探すことにします。

花を手向けるより、言葉が必要だったはず。人は言葉で意思を確認し、自分を、そして世界を発見すると思うのです‐‐って、今回はちょっと生硬な、こなれていない文章になってしまいましたね。

お詫びに、ボクの好きな黒田京子の歌を一つ。

優しさの定義はあまたと思へども 初めに言葉あるべしと思ふ





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