星が綺麗ですね
帰りの満員電車で彼女に寄りかかった。事実、自分は酔っていた。ドイツビールにも彼女にも留学決定の喜びにも酔っていた。自分が留学へ旅立つことで彼女に最上級の孤独を与えられることを、そっと期待した。そして、何より哀しみに酔っていた。自分の足で立てないほど。泣きたくて堪らない表情を隠さなければならなかったから顔を伏せた。
このまま電車が停車駅に着かなければいいと思った。ずっとこのまま彼女の肩に寄り添っていたかった。彼女に離れて欲しくなかった。
けれども彼女の脳裏を支配するのは男だ。さっきの会話。彼女は歳上男性とクリスマスデートをすると語った。麗しい女の顔になって。
あの絶望は、つい一時間前のことだ。レーズン嫌いだけどこれは美味しいねと言って、自分はドイツ風ケーキを食べた。彼女と同じ注文の。生地の間にレーズンが沢山仕込まれていた。甘いレーズンが舌に乗り、雪解け以上にしなやかに溶けた。本当に美味しかったはずなのに、今はもうあの味を思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
何を今更嘆くのだろう。最初から知っていたのに。彼女は異性愛者だと、初めて一緒に飲んだときから知っていた。そのときから、長い失恋が始まったのだ。
月が綺麗だね、と言った。西に上弦の月が浮いていた。車窓が曇っていることが気にならないほど、月はあたたかい光を発していた。彼女は、おばあちゃんの名前が「月子」だから、私たち孫のグループLINEは「月の子たち」って言うんだと朗らかに話してくれた。
月は疑いもなく綺麗だった。夜空の主役だ。でも自分は星の方が好きだ。彼女にそう言った。星は時間も空間も超越して、ギリシア神話を彷彿とさせる模様を編み出している。愛おしい存在だと思う、月以上に。
黙ってこちらの話に耳を傾けながらも、彼女は眼鏡を外して五個にまでも分身する月を見ている。彼女は視力が良くないそうだ。
自分は東京では見えないはずの星を必死に探している。月が綺麗ですね、で会話が完結したらどれだけ幸せなのだろう。
けれど。自分は星が見えないことに絶望しているわけではない。東京には東京にしか見えない星がある。
高層ビルには赤いランプが付いていて、港区のオフィス街なんかでは、赤い水平線が見られるんだ。最果タヒの詩が言っていた。だからそれを東京の星だと思うことにした。
そうだ、それが幸せでいいじゃないか。自分は幸福に慣れていないのだから、あまりに幸福だと逃げてしまうに違いない。彼女が自分のことを恋愛の枠踏みに置いておかないことによって、今の幸福が保たれているのだ。
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