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いい子でいるのは、手っ取り早いから、



その三文字は、身の丈にあわないほどの華美を、知り始めている。



本当にいい子だね、なんて言われる。主に私よりずっと年上の、親ほどの世代の人々から。私はそれを都度、少し困ったような笑顔でそんな、と謙遜する。はたまた嬉しそうに礼を言う。そうして心の中で当たり前、と舌を出している。かと言われれば、そうでもなかった。それはただの、相手の事実として脳みそにインプットされて、一つの価値観として理解する。あぁ、相手に心地いい印象を与えられたんだな。試行錯誤の末の本日の評価。心は凪いだ草原の表面のようにあって、そんな自分をただぼんやりと見つめている。


その言葉はかつて私が欲していたものだったけれど。そう言われるたびに、正解、と許可をもらえるような気がして安心した。最も美しい枠組み。人間関係のアルゴリズム。


いい子でいること。それはつまり明快に、生きやすく道を舗装すること。受け入れられること。余計な心労を増やさないこと。予防線を張ること。助けられること。真心を受け止められやすくすること。嫌なことを聞こえないふりしても咎められないということ。性善説を相手に刷り込ませること。

遠くから眺めては少し窮屈かもしれない。だけど私は自分で枠を組み立てられなかった。無意識のうちにも通したい絶対の自我。なにかはわからない。しかし、それのために残りはすべて迎合する。


褒められている自分、というものをぼんやりとながめる。私は随分、はじめから真ん中を狙うことが得意になったのだなと思う。
いい子であることの8割は技術だ。パターンの習得。応用。残りは善意。直感。人間味。
本心を、真心を伝えながら、頭の中では自然と計算が始まる。きっかけが無垢としても、鉄が磁石に引き寄せられるように論理を武装してゆく。心を痛めるにはあまりに通り過ぎた地点。

極端なことしか多分できない。65度の、言葉にならない空間を、そのかたちのまま持ち続けられる人々に触れるとき、肌が震える。
私はずいぶん怖がりだから、なんだって理屈にしようとする。言葉にならないことは、言葉を持たないことによって、はじめて立体であり続ける。言語的理解は平面だ。結果ばかりだ。すぐに肉体を忘れようとして。


いつまで、この魔法が通じると言うんだろう。



昨日、久々に「いい子」を間違えてしまった。感情の読み取りやすい顔で事なきを得た。でもきっと、鋭い人には見抜かれているんだと思う。そうして、ふと、針のような切っ先で膜を裂かれて、暴かれる。
 


わたしは、えへへ、そうかも、と何をも制さず、場を濁す。






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