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お坊さんの死生観日記 ~思想と臨床~ #005 「ブッダとケシの実」

こんにちは。恭敬房ぐみょうです。最初の漢字は、”くぎょう”と読みます。

お釈迦様(仏陀、釈迦牟尼世尊)には実に沢山の説話が残されており、2500年前でも、人の営みや考えは変わらぬものだなと、微笑ましかったり、苦笑したりします。また、お釈迦様という実在の人物の、人間性が実に良く描かれており、感心致します。お釈迦様は、サンガという僧侶集団の組織化を行い、集団生活のルールを策定し、動機付けを行い、ビジョン・ミッションを明示するリーダーの存在であり、他方、揉め事を仲裁したり裁定する、裁判官のイメージです。

さて、そんな説話集の中で、手塚治虫の『ブッダ』というマンガの中にも出てくる、死に関する有名なお話があります。

子どもを亡くした母親キサー・ゴータミーは、気が狂った様に、この子を生き返らせる術を教えてくれと、町中、子どもの亡骸を抱いたまま、歩き回っていました。彼女はすがる思いで、お釈迦様の所にやって来て、「この子を何とか生き返らせて下さい!」 と懇願しました。 お釈迦様は母親に言います。

この町の一軒一軒を訪ね歩き、ケシの実をもらって来なさい。その実が子どもの命を蘇らせる薬だ。ただし、そのケシの実は、1人も死人を出したことのない家からでないといけません」と。

母親は、わらにもすがる思いで、一軒一軒訪ね歩くと、「昨年、親を亡くした」、「先月、子を亡くした」など、1人も死人を出したことのない家などなく、誰もが死別の体験をし、悲しみを抱えていることを悟るのでした。

「ああ、なんと恐ろしいこと。私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。でもどうでしょう。町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い・・・」

彼女は、話を聴いて歩いているうちに平常心を取り戻していきました。戻って来た母親に、ブッダは「死は、生きる者にとって、逃れられない定めであるのです。子どもが生きているのであれば 生きている子どもを愛し、死んでしまったのなら、死んだ子どもを愛しなさい」と諭したと言われます。そうして、この母親はブッダに帰依します。


私は心理学を専門的に学んだ訳ではありませんが、人の相談に乗る時には、   「特別化」と「全般化」という考えの癖に注意をしています。

苦しみは、その人特有のものであり、個別のものであります。それを、「みんな同じ辛い思いをしている」、「同じように、多くの人が苦しんでいる」と全般的におしなべて伝えたところで、理解はしてくれるでしょうが、その人の悲しみは癒されるとは限りません。悲嘆の中、視野が狭くなっている時に、広い視点を与えることは大切です。ですが、それだけに終始してしまうのも、少々投げやりで他人事の印象を与えてしまう恐れがあるかと感じ、個別の問題を安易に「全般化」して終わらせないよう、私は注意を払っています。

いえいえ! お釈迦様のご対応に反駁しているわけではございません!笑 渦中の人を、混乱の狭窄状態から解放してあげるという第1段階を、お釈迦様は実行されたのです。そして、母親が少し落ち着いたところで、再度「特別化」し、実の子供を亡くした母親のグリーフ(悲嘆)に寄り添ってあげるという第2段階は、お釈迦様の弟子である私たち僧侶であったり、近くにいる心優しい善意の方々の役割ではないでしょうか。

ところで、昨日4月8日は、お釈迦様の誕生日であり、花まつりでした。当日の報告ですと、少し重く感じてしまう人もいらっしゃるかと思いまして!

おしまい。

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