でも、息をしているの。私。


休みの日に空気を吸って。
仕事の日々は、息を止めて。
まるで水中を必死にもがき苦しむが如く、
息継ぎを繰り返す。
そんな日々を繰り返している。
たまに鼻や口から変に水が入ってごほごほ咽る。
そうすると息継ぎも上手くできず、
上手く前にも進めなくなり、
酸欠の頭は次第に重くのしかかり、
私は、
私は。




Serious【.que】


今日の、というか、今週の一曲。
月末の忙しさと8月が終わってしまうという焦燥感の中を駆け抜けられたのは、この曲をアラームにして朝を迎える事ができたからかも知れません。

記事導入の鬱々さ加減から一転して清々しい曲調のこの曲は、相対的に音とその世界に逃げたい私の意識を如実に現しているようにも思えますが、ご愛嬌ということで一つ。

あぁまた一日が始まって、けれど、もしかしたら、ちょっとだけ良い日になる、かな、そうだといいなぁ…なんて。
思いながら聞いています。
聞きながら朝ごはんのヨーグルトを準備する毎日です。この曲を聞きながらだと朝のルーティーンも少しだけ良い気分になれます。

カーテンを気持ちよく開けるとか、音楽に背中を押してもらうとか、自分を演出してあげることって本当に大切ですね。




でも、息をしているの。私。


人間関係において “ 辛い ” と感じる瞬間は多々あれど、最近特に酷く敏感になってしまうのが、

価値観の相違

であります。
圧倒的価値観のズレに苦しむ毎日。
中でも今回の場合、話し合って擦り合わせることのできない割と末期なパターンでありまして。

つまり。
つまりつまり、最近の私は特定の人間に対して『諦める』という感情をしなければならない、そんな事態に直面しています。

これは自分にとっては非常に大きな問題で。
言ってみれば、人を “ 下 ” に見るような。
見下すような心持ちをしなくてはならないような。
そうでもしなければ自分の心が保てない事態に達してしまっているのです。

皆さんどうなんでしょう。
『人』の事を『諦める』瞬間。

この人には何を言っても無駄、とか。
そういう人だからしょうがない、とか。

現実問題、これは、あるのでしょう。
意識的、無意識的かは別にして。
そして程度もまた、別にして。
ある、とした上で、しかしその後にどう対処するかは、これまた人それぞれです。
なお当たってみるのか。
そっと離れるのか。
別の人に助けを求めるのか。

間違いなく、純然たる事実として、
努力をしてもどうにもならない瞬間に当たってしまうことは、あります。
けれど理想論として、私は

『話し合えば、話を続ければ、きっといつか理解できる、してもらえる日が来る。なぜなら同じ言語を話す人間同士なのだから』

そう思って生きてきました。
甘い考えなのは重々承知なのですが、
いえ、承知できてなかったのですね。
今も心の隅ではそう思ってしまう瞬間があります。諦めても、何かをきっかけに理解してもらえるのではないかと。
その都度、苦しい想いをしてしまうのですが。
どうしても、人に期待してしまう。
これは承認欲求になるのでしょうか。
期待なのかどうなのか。
けれど期待になるのでしょうね。
理解を願いとして、実現してほしいと思っているのですから。

前置きが長くなりましたが、少し具体的な話。



自分のフィールドに寄せてしか会話が成立しない人間って、一定数存在しますよね。返す会話が常に「でも私はこう思うんだけど」とか「俺なんてこの前さ」とか。相手に寄せた話や返事をまるでせず、自分の中の似た経験の中から結論を見つけようとする方。

いつも自分の話ばかりにすり替わってしまって、悩みや相談したのはこちら側なのだけれど、いつの間にか相手の経験を褒めたりする側に回っていて「あれ、私の気持ちに寄り添って欲しかったんだけど、気付いたら私が相手に合わせてる」なんてこと、割とよくある事だと思います。

相談したり聞いてほしくてお話しても。
相手の自慢話などに置き換わっていて。
わーすごいね、なんて気を回す事になり。
相手がただ気持ちよくなって終わる事。

ありますよね。



ここに例として、一人の人間を登場させましょう。


(以下、どうしようもない人間関係の話と、愚痴しか続きませんので、区切りとさせていただきます。なんの為にもならない話ですので悪しからず)


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