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一匹サバ

 群れからはぐれたサバが泳いでいる。

 はぐれた、というと語弊があるかもしれない。はぐれるには前提として母集団が必要だ。しかしもうそんな集団は無い。みんな揃って巻き網で海の外へ連れ去られた後だ。

 連れ去られた、というのもまた少し違う。連れ去るのを許容した、というのが正確だろう。
 サバの諦めは鮮度の低下と同じぐらい早い。視界に網目が迫り、周囲が慌てふためき出すと、「もう抵抗は無駄だ」「いっそこの先に希望を持とう」「辛い海よりマシに違いない」、こんな具合に、体ではなく意識の底の方で、あっという間に諦めてしまうのだ。

 いまや一匹サバとなった彼とて例外ではなかったのだが、ちょっと戯れに暴れてみた拍子に、閉じきる寸前の網からするりと抜け出てしまったのだった。


 一帯は、海面から溶け出してくるような柔い光で満ちている。
 彼が背びれ尾びれをくねらすたび、胴体がチカチカと光って悪目立ちしてしまう。

 ”一匹狼”だったならば、力強くて矜持のひとつも感じられるだろう。
 しかし彼は一匹サバだ。
 御存知の通り、サバは群れて密集することで捕食者から狙われるリスクを減らしている。
 だから彼はひどい不安に襲われていた。たった一匹でふらふらチカチカ漂っているサバに、身を守る術など皆無なのだ。
 いまさら青魚をやめてカサゴやらアンコウやらになれるわけでもない。

 サバ一匹だけで何ができるというのか。
 繁殖ひとつままならない魚に、生きながらえる意味が?
 もし意味があったって、術がない。
 いつ大型の捕食者がやってきて引き裂かれるかもわからない。
 怖い。
 こんなことなら、おとなしく網に掛かっておけば。 

 そんな不安をエラから吐き出している内、もうどうでもいいような気になってしまった。
 だんだんと泳ぎが緩慢になっていく。
 少しずつ、少しずつ、水底へ沈む。
 このまま消えてしまいたいのに、てらてらとした銀色の肌はしぶとく闇に浮かんでいる。

 ――彼は考えていた。

 おとなしく氷漬けにされるのと、生きたまま噛みちぎられるのと、水圧でパンクするのと。どれが最善の選択肢なのか。あるいは最善など存在しないのか。
 一匹だけのサバに、食われる以外の価値なんてあるのか。
 もしあるなら、どうしてこんなにも非力なのか。これでは価値があっても生きられない。

 いつまでも悩みは尽きない。
 
 気づけば何も見えなくなった。
 どのぐらい堕ちたのだろう?
 まだ辛うじて呼吸はできている。

 もし、このまま海底までたどり着けたなら。
 ウジウジと悩むのをやめてみようか。

 ただやっぱり。
 そこにはそこの、生態系があるんだろうな――

 不意に周囲で、ぼんやりとした光が踊った。
 青や白や橙が、波打ったり、忙しなく行き来をしたり。
 自分のいた群れとは違う、静かな輝き。
 彼はうっとりと光に見入った。

 サバである彼には、光が誰のどういう合図なのか知る由もない。

 体に噛みつかれるまでの束の間でしかなかったが、
 彼は自分が一匹サバであることを、すっかり忘れていられたようだった。


(了)

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