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【ホラー】厄介な明滅

 寿命の切れかかった街灯が明滅をくり返していた。
 ジリジリと両端から蛍光を伸ばしていき、どうにか点いたかと思えば何度か細かく点滅してすぐに力尽き、それから少し間をおいて、また始めからジリジリとやり直している。

 もう幾ばくもなく日付が変わるという頃、帰宅の途にあった男は、寝静まった住宅が立ち並ぶ通りの先の方に、その死にかけのような街灯を認めた。
 不意に彼は、左手に提げていたコンビニの袋を右手の中指に引っ掛けるようにしてビジネスバッグと一緒に持つと、空いたその手で閉じた瞼を強めに押さえた。ただでさえデスクワークの疲労でチカチカと痛む眼球の奥が、街灯の明滅で殊更に刺激されたように感じたのだ。
 圧迫を解くと目の奥がわずかに弛み、痛みをいくらか紛らわすことができた。

 片目ずつ、二度三度繰り返し、立ちくらみのように靄がかった視界の中をとぼとぼと歩いていた彼は、件の街灯の傍まで来てびくりと身を強張らせた。

 街灯の下に、何かが居た。

 それが何かははっきりしなかったが、霊感はないと自覚している彼にでさえ明らかに異様だった。それは街灯の明滅に合わせて、現れたり消えたりしているのだ。明るい時に現れるのではない。消えた時に現れ、点いた時に消える。
 姿形ははっきりしない。強いて言うならば、黒いトレンチコートと中折れ帽の男、あるいは厚みのある影、黒い蜂の大群。ただどれもあくまで印象でしかなく、とにかくはっきりしないというのが最も当てはまるのだった。
 印象があやふやなのは、この住宅街に街灯が少ないからというわけではないだろう。事実、周辺の民家などから漏れ出る光があり、辺りを視認するぐらいは造作もなかった。
 彼はできるだけ平静を装いながらそれを横目に通り過ぎると、絶対に振り向くなと心の中で繰り返し唱えつつ、早足でその場から離れていった。

 マンション五階の自宅に着くと、すぐさま細い廊下の脇にある申し訳程度のキッチンで食卓塩の小瓶を引っ掴んだ。頭から始まって体中に振り掛け終えると、今度は靴や玄関、ドアの郵便受けの中、とにかくワンルームの部屋中にくまなく塩を振って回る。
 小瓶を空にして人心地が付いた彼は、妙に粘っこい汗が顔中に浮いているのに気が付いた。できればシャワーを浴びて洗い流してしまいたかったが、霊感が無いのと怖がりなのは別問題だ。やむなく電気ケトルで湯を沸かし、コンビニの袋から取り出したカップ麺に必要量を注ぐと、残りをバスタオルに掛けた。少し冷ましてから体を拭くためだ。

 ひとまずのところ、周囲におかしな気配はない。
 ふと、ベランダに面したガラス戸のカーテンをまだ閉めていないのに気づいて、手前のシングルベッドに膝を掛けた。少し湿り気のあるガラス面には、暗闇を背景にして室内の様子が浮かんでいる。
 映り込んだ自分の姿が動くのに妙な不気味さを覚えながらも、ガラスの中に異変が無いことを確かめカーテンを閉めた。
 振り返るといきなり怨霊が……、とならなかったのは彼にとって幾らかの安心材料となった。テレビの電源を入れ、カップ麺を啜りはじめる。

 にわかに声を発したテレビは、地元ケーブルのコミュニティチャンネルに合っていた。美人なのかそうでないのかよくわからない女性がメインキャスターのニュース番組だった。
 特に興味があったわけではないが、さっき見てしまったあれについて何か関係する情報でもありはしないかとそのままにしておく。しかし特になんの手掛かりもないまま番組は終盤を迎え、最後にローカルな天気や事件事故情報などが表示された。域内では事故が一件と、空き巣や強盗被害が数件ほど発生しているらしい。

 民放にチャンネルを変えるとやはりニュース番組で、こちらはナントカちゃんの虐待死だとか国会の空転だとか、既視感のあるトピックばかりが並んでいる。CMに入ったところでザッピングをすると、小煩いバラエティ番組がやっていた。やたらテロップと笑い声が挿入されるのが肌に合わず避けていたのだが、この時ばかりはそれが気を紛らわせてくれるように思えた。

 カップ麺を食べ終えるとバスタオルで体を拭き始める。いつの間にほどよい温度を通り過ぎてしまったのか、どれだけ拭っても生ぬるい湿り気が肌にまとわりつくばかりだった。

 それにしてもあれは何だったのだろうか?
 体を拭きながらあれやこれやと考えていた彼だったが、そうやって気にし過ぎると返って呼び寄せてしまうのではないかという根拠のない理屈に行き当たって、キッチンのシンクでタオルを絞るのと同時に考えるのをやめた。
 電灯もテレビも点けたまま、寝間着に着替えて布団を被る。やはり不安からしばらく寝付けなかったが、日頃から積もりに積もった疲労はこんな日にでも彼の意識を奪うのだった。

***

 翌日の帰り道、相変わらず街灯は死にかけている。
 彼は恐る恐るそこへ近づいていく。もちろん遠回りしても自宅へは辿り着けるのだが、特段身の回りに変化がなかったことが彼の好奇心を増長させていた。もしまたあれを見かけることがあっても、気づかないふりさえすれば問題はないだろうと。コンビニの袋の中には一キロの塩が二袋、食卓塩の小瓶も入っている。

 チカチカと瞬く街灯の下に、やはりそれは佇んでいた。
 彼は昨日よりも幾分か冷静に観察をしながらすれ違う。すると、どうもそれは通りすがる人間に興味がないのではないかと思えたのだった。あくまで感覚でしかないが、人間でいえばどこか一点を見つめているようなのだ。

 すっかり自分には危害が及ばないものと高を括った彼は、翌日、翌々日と件の街灯を通り過ぎてはそれの観察を続けていった。
 新しい発見は、それが少しずつ移動していることだった。初めは街灯の下に居たはずであったのが、三日、四日と経つ内に気づけば道の真ん中ぐらいまで来ているのだ。
 自ずとその先に意識が向かう。そこには相当な築年数と思しき二階建てのアパートがある。上下に五部屋ずつ、この時間に電気が付いていたのは上階の二部屋だけ。そもそも他に人が住んでいるのかどうか怪しく感じたのは、玄関ドアの表面が剥がれて芯の木材が顕になっている部屋がほとんどだったからだ。通りからは赤茶色に錆びた階段が右肩上がりに伸びているのが見える。
 悪い予感がした。このアパートの住人に何かが起きるのではないか。
 また二、三日の後に、彼の不安は急激に膨らんだ。やはりそれは真っ直ぐにアパートへ向かっているのだ。

 彼は焦った。明らかにこの世ならざるものが、何らかの意図を持って進んでいく。その先には間違いなく人の住む部屋がある。これまでの観察の間、二階の一番左にある部屋から子供の鳴き声が聞こえた事があった。もしそこを目指して進んでいたら。いや、その部屋でなかったとしても。このまま見て見ぬ振りをしていて何かが起きてしまったら――

 街灯がチカチカと明滅した。同時に、影のような塊も裏拍を取るようにして消滅と出現をくり返す。
 彼は思わず「そうか!」と叫びそうになって慌てて口を押さえた。急ぎ足で自宅へと帰ると、すぐさま役所への連絡先を調べ始めたのだった。


 仕事の合間を使ってランプの交換を申請したものの、お役所仕事とはこのことで、すぐには交換は行われなかった。その間も、日毎にあれは進んでいく。いつの間にやら階段を昇りきり、例の子供がいるらしき部屋へと迫っていた。
 既に二週間は経っているにも関わらず、ランプは交換されていない。
 いつまでも交換されない事に業を煮やした彼は、何日も仕事をすっぽかして役所へと働きかけるようになっていた。もうあれは玄関の前まで来ているのだ。

 その日がやってきた。
 いよいよ玄関ドアの前にあれが立ってしまうという夜になって、彼は街灯の下でへたり込んでいた。
 頭上のランプが煌々と道を照らしている。新しく交換されていたのだ。そして彼の目論見通り、あれは姿も気配も消え去っていた。

***

 それからまた二週間ほどが経った頃だった。
 いつものルートで帰宅していた彼は、例のアパートのある通りで人だかりに阻まれることになった。
 人混みを掻き分けてみれば、テレビでしか見たことのない黄色いテープを張り巡らせて、警察が道を封鎖しているのだった。立ち並んで警備をしている警察官の隙間から、赤色灯の光が漏れ出てくる。パトカーはどうやらあのアパートの前に停まっているらしい。

 彼は野次馬の一人に訊ねてみた。
「なにがあったんですか?」
「なんか、虐待で子供が死んじゃったらしいよ」
 釈然としなかった。街灯の明滅は単に見え隠れだけの問題だったのだろうか。確かに気配まで消えたように感じたのだが。

 あの日の気持ちがぬか喜びだったことに落胆しつつ、彼は回り道をして自室へと辿り着いた。部屋の手前、廊下の端にある電灯のスイッチを点けると、ベランダの外に風でたなびく洗濯物が浮かび上がる。やれやれと部屋に足を踏み入れると、電灯がチカチカと明滅をはじめた。嫌な記憶とともにガラス戸へ近づいていく。見れば一部が小さく割られ、片側が半開きになっていた。

 チカチカと明滅する。

 ガラス戸の中に黒い影が映り込み、ストロボを焚いたみたいにコマ送りで近づいてくる。クローゼットから飛び出してきたらしい。手にはナイフが握られていた。

 彼は念じた。やめてくれ、それだけはやめてくれと。子供の死を聞いた時、すぐさま見て見ぬ振りをした一つの仮定を打ち消すように。
 近づいてくる悪漢にではなく、ガラス戸の中のもう一つの影に向けて。

 チカチカと明滅する。

 ベランダの更に向うから、ハンマーでアスファルトを叩いたような音がした。ガラスの中に、もう影は一つもない。

 蛍光灯が消えた。

 戸の隙間から、温みだしたとはいえまだ底冷えする風が忍び込んでくる。
 もしあれが、悪いモノを付け狙っていたのだとしたら――。

 再び蛍光灯が点いた。
 また時折、細かく瞬いては消え、やがて点灯してをくり返す。

 どこかで見かけた子供の顔が、目の奥をチカチカと刺激する。掌で押さえてみても、痛みは止みそうになかった。


(了)


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