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ハートに火をつけないで。むしろ水かけて。

 駅近くの雑居ビルにある水風呂のないサウナに、そいつは入り浸っていた。
 否、正確には入り浸っているように見えた。私がそのサウナに赴いた際には必ず先客としてそこに居たし、また、私より先に奴が室を出ていく姿は見たことがない。だから少なくとも私には、奴がずっとそこに座り続けているように思えたのだ。

 どこのサウナでも見かけるような、中年太りの禿げ散らかした初老の男だ。
 不思議なことに、曜日や時間帯をランダムに変えても、週に三度、四度訪れても、必ず奴と遭遇してしまう。二十四時間営業のどの時間帯であってもそうなのだ。最近ではさすがに何度も顔を合わすので、軽い挨拶ぐらいは交わすようになっているが、だからといって打ち解けた会話をするようなことにはなっていない。立地も手伝ってか他の利用客もそこそこあるのでそういう雰囲気になりづらいというのもあるし、何より、自意識過剰かもしれないが、向うも私がいつ出ていくのかと気にしているようなのだ。どうもチラチラと目が合う。自分でも気づかぬ内に、ありがちな対抗意識に火でも付けてしまったのだろうか? とにかく会話から奴について探るのは難しそうだった。

 俄然、私は知りたくなった。奴がいつサウナを出ていくのか。

 それからというもの、私はこれまで以上にサウナと向き合った。毎日必ず立ち寄るようにし、五分、十分と休憩を挟むまでの時間を伸ばし、サウナと休憩を三サイクル繰り返して帰宅していたものを四、五としていった。
 その甲斐あって、これまでよりずっと長く居座ることができるようになっていったのだが、しかし奴は手強かった。最長で三日間までは耐えたのだが、それでも奴は動かなかったのだ。
 結局、五年の歳月を経てもなお、奴の立ち上がった姿を目にすることは叶わなかった。

 ――さらに五年が過ぎ、その日は唐突にやってきた。

 朝一番で不退転の決意を持ってサウナに足を踏み入れた私は、奴と会釈をすると、いつもの通り距離をとって二段目に腰を掛けた。そのまま二ヶ月。たまたま他の客が一人もいなくなったタイミングで、奴はやおらこちらへ振り返ると力なく手招きをした。私が這うように隣へと辿り着くと、奴はしわがれた声で言った。

「あんた、ホントに人間か?」

 意外だった。何よりそれを訊ねたかったのは私の方なのだ。
 私はれっきとした人間であることを伝えると、この十年溜め込んできた疑問を矢継ぎ早に放った。
 奴の話によれば、どれだけランダムにここを訪れても、サウナへ入るとすぐに私が現れたということだった。はじめの内はほどなくしていなくなったので気にならなかったが、いつしか居座る時間が伸びはじめると、どうにも恐ろしくなってしまって、ついに私が帰るまで帰れなくなってしまったのだそうだ。

 私たちは悟った。全くの偶然から、互いを恐れることになったのだと。
 そして気づいた。ありえない偶然が幾つも重なったのだとすれば、それをなんと呼べばいいのか。

 奴の潤んだ瞳が私をまっすぐに見つめる。私の手からはサウナの熱波で出るのとはまるで違う、粘った汗が吹き出している。今ここには二人しかいない。
 この二ヶ月間、いや十年間、ここに居座ることだけに捧げてきた私と奴の、ずっと内側に溜め込んできた様々な欲求が、グツグツと煮えたぎっているのを感じる。まるで長い時間、圧力鍋で煮込み続けたみたいに、開け放たれた鍋の中身はドロドロで、もうこの情動に明確な名前は付けられない。

 どうしてこのサウナに、水風呂はないのか。水風呂さえあれば。
 そんな事ばかり考えながら、男の目を見つめ返した。


(了)



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