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誰が似合うと思う服を着るのか

彼氏の好きな服を着る。あるいは流行りのファッション、好きなインフルエンサーのしているファッションをする。

これは守破離の「守」である。

しかし、なんとなく自分にしっくり来なくなってくる。どうも自分らしくない。そこで、正解はよくわからないが、今まで着ていたような服を買わなくなる。そして、迷走を始める。

これが守破離の「破」である。

そして、このなんとなく「ノリが悪い」時間(参考:千葉雅也『勉強の哲学』)を過ごす。

そこで迷走している中で、色々な服屋さんを廻るうちに自分のしっくり来る服に出会える(あるいは服を作る)。

その服がわかった時、彼氏に「似合っているね、その服にした方がいいよ!」と言われても、強い意志(というほどでもなく、ただ事実関係を正すかのように)「いや、自分がこれでなくあの服の方が似合うし、しっくり来る。着ていて気分が良くなる。だから、あっちにする」と言えるようになる。

私が私に似合うと思う服を選べるようになったとき、守破離の「離」が達成されたのである。

これは服の話だった。しかし、職業や家族構成や進路や人間関係や趣味や居住地やライフスタイルなどにおいても通じる話であろう。

私たちは、最初、自分に似合うそれらを知らない。だから、周囲の意見に流されやすいし、むしろ流された方がよいことだってある。しかし、それを実践しているうちに、自分の感覚という情報が蓄積されていく。

「医者を目指しながら勉強すること」「都心のタワマンに住むこと」「美人の奥さんと結婚し子供を2人もうけること」「異性を愛すること」「正社員として働くこと」「女性らしい趣味を持つこと」「身の丈に合うことだけして生きること」

それらに違和感を覚えることがあるかもしれない。覚えないかもしれない。しかし、それらに違和感を覚えたのなら、どうするかについては分からないかもしれないが、「違和感を覚えた」という事実は絶対的に肯定される。肯定されることを事実と呼ぶ。

あなたはその時「違和感を覚えた」のである。それは医者の仕事を直接見学したり、話を聞いたりすることで解消されるかもしれないし、医者じゃない職業を目指したり、そもそも現段階で「将来の夢」を決めないでおくという路線変更によって解消されるかもしれない。

親が「あなたには医者が似合っている」といい、それならばとその「夢」をまとって生きているが、「これは本当に自分に似合っているのだろうか」と引っかかる。だから、一旦それをやめてみる。

親は悲しむかもしれない。怒り出すかもしれない。もしかしてあなたに失望し、関心すら抱かなくなるかもしれない。それでもあなたは迷走する。今までやってみたことのない運動や音楽や美術や知識や人間関係に触れてみる。

そこで色々見る。そして、自分に似合うものを見つける。そこに至るまでには数日かかるかもしれないし、数年を要するかもしれない。

だが、それを見つけたとき、「やっぱりあなたには医者が似合う」と言われても、毅然と、あるいは勇気を振り絞ってこのように言うことができる。

「違う、自分に似合うのは」

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