大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-10大谷仏教会館

■大谷仏教会館から又一ビル(現代)大阪市中央久太郎町3-5-13
難波別院(以下南御堂)の東側、御堂筋に面する又一ビルは、ガラス張りの壁面に、美しい装飾が施された外壁が張り付けられたビルとして知られています(図1~2)。

図1

図2

無装飾のモダニズムのビルと装飾豊かな外壁の対比がこの建築の特徴と言えます。ビル前の説明板によると、
①この美しい外壁は旧大谷仏教会館の外壁の一部である。
②『日本近代建築総覧』(日本建築学会)にも掲載されている。
③昭和61年(1986)の「大阪都市景観賞奨励賞」を受賞。
したことなどが記されています。

又一ビルは、昭和60年(1985)に竹中工務店の設計・施工で完成しましたが、設計の経緯に興味深いものがあります(注1)。設計担当者は、以前から大谷仏教会館(以下会館)を知っており、テラコッタの装飾に「東洋的なものを感じていた」そうで、「建物のファサードをデザインに採り込んででも遺せないものかと絶えず考えあぐねていた」と言います。

そして、会館の戦後の変遷などを知るに至り、遺したい気持ちが強くなり、「装飾性の高いファサードを切り取った壁として、現在の御堂筋に向けて改めて語らせたい」という手法に行き着きます。具体的には、ハーフミラーガラスと金属パネルによるカーテンウオールという、「モダニズムの表現で保存する外壁との対比を意図した」(図3 完成予想図)そうで、その意図は成功しています。

図3

さらに、会館の外壁を保存することで御堂筋の景観に貢献したいので、容積の上積みを大阪市に相談し、快諾を得られたそうです。これが、「大阪都市景観賞奨励賞」の受賞につながったのでしょう。取り壊される可能性が高かった建築が、モダニズムビルの一部に外壁保存によって残されたことに、担当者の建築や御堂筋の都市の景観に対する深い思いが感じられます。

注1)「記憶としての建築再生 御堂筋又一ビルの場合」(『月刊大建協』425号)
テラコッタ:建築物の外装に用いられる、装飾が施された大型の粘土製品。戦前の様式建築の外壁などに多用された。

■大谷仏教会館(戦前・戦後)
大谷仏教会館は、御堂筋の拡張により南御堂の境内が切り取られた際、御堂筋の東側に残された境内地の一部に、「教化の殿堂大谷会館の建設が企画」(注2)・建設され、昭和8年2月に竣工しました(図4近代建築画譜)。外観については、「ルネッサンス式、(中略)まことにモダンな殿堂」(注3)、「タイないしビルマを想わせるような紋様(中略)いかにも仏教徒の会館らしい雰囲気(後略)」(注4)と全く異なる評価がなされていますが、西洋のルネッサンスというより、アジアもしくは東洋的な雰囲気を感じます。モダニズム建築には見られない、豊かな装飾が見る人を魅了するのでしょう。

図4

南御堂は、昭和20年3月18日の大空襲によってその一部と、会館のみが焼け残りました。戦後当初の復興計画では、会館を「修復して文化会館」とする構想が立てられますが、予算の関係でご破算となりました。『日本近代建築総覧』が発刊された昭和55年には、和歌山相互銀行として用いられていました。

注2)『難波別院史』3)前掲2)と同じ。4)『近代建築ガイドブック』

■建築家竹内緑
大谷仏教会館の設計者竹内緑[たけうちみどり]は、明治6年(1873)東京神田に生まれました(図5)。

図5

灯台建設工事に従事しながら、明治31年攻玉社土木科(注5)を卒業し、その数年後に来阪し、建築事務所を営んでいた茂庄五郎[しげしょうごろう]の紹介で大阪市役所に入所します。市役所では、第5回内国勧業博覧会(明治36年)の施設である植物園(図6~7、現存せず)の設計を担当しています(注6)。市役所では臨時職員であったようで、博覧会終了後、再び茂の紹介で尼崎紡績に入社、多くの工場を設計しました。

図6

図7

尼崎紡績は、大正6年(1917)に摂津紡績と合併して大日本紡績となります。現在のユニチカの前身です。大日本紡績では19年間勤務しますが、社長の菊池恭三、重役の田代重右衛門の信任が厚かったそうです。

大正11年に竹内建築事務所を開設しますが、日本レーヨン宇治工場(大正15年)、宮川モスリン宮川工場(大正15年)、日本レーヨン岡崎工場(昭和8年頃)などの紡績関連工場の仕事は菊池社長、また大谷仏教会館は田代重役の紹介によるものであったと言います。田代は、南御堂の檀徒総代的な人物で、武庫郡住吉村(現神戸市東灘区住吉町)の自宅から、毎朝6時に始まる勤行に出席した後に出社していたそうです。竹内について、「京都を本拠に活躍した建築家で、おそらく本願寺となんらかのつながりがあったものであろう。」(注7)との指摘がありますが、竹内は、大阪で事務所を開設した建築家で、本願寺とは何の関係もありません。

昭和14年に事務所を解散します。17年余の事務所の初期の代表作が日本レーヨン宇治工場、中期の代表作が大谷仏教会館です。大規模な紡績工場は、工場関連施設のほかに、社員寮・社宅、食堂、体育館、医院など多くの施設の設計に長時間を要したと聞きました。それらの施設も、筆者が訪れた昭和59年頃には建て替えが進み、残された施設も早晩建て替えの予定が立っていました。

市井で活動した建築家のほとんどが無名のまま生涯を終えていますが、大谷仏教会館は装飾の美しさで生き残り、設計者の竹内緑はこの会館によって名を刻むことになったのです。

注5)明治六大教育者の一人近藤真琴が、文久3年(1863)に開いた蘭学塾「攻玉社」に端を発する学校。現在も攻玉社学園として東京と品川区に存在する。
6)ご子息の話し。 7)前掲4)と同じ。

■閑話休題■ ほかにもある仏教会館
『近代建築画譜』には、山口仏教会館と芦屋仏教会館が掲載されています。

●山口仏教会館(図8近代建築画譜、設計武田五一、大正10年竣工、現存せず)

図8

山口仏教会館は、山口玄洞が建設資金を出して建てられたものです(注8)。設計者の武田五一との関係は不詳ですが、大正12年に山口の自邸を武田が設計していますので、知己の関係であったと思われます。山口は現在の尾道市出身で、明治15年、大阪の横堀2丁目に洋反物店を開業し、一代において財をなし、各方面に多額の寄付を行った財界人です。大正6年に引退して信仰に入り、多くの寺院の復興を行っています。近年では、山口が復興に携わった寺院建築の研究が進んでいます。

●芦屋仏教会館(図9近代建築画譜、設計片岡安、昭和2年竣工、芦屋市前田町1-5)

図9

図10

図11

図12

図13

これらの会館を見ると、建設時期は大正デモクラシー期(注10)で、洋風の生活が定着し、文化・教育などにたいする関心が高まった時代です。その時代に、山口玄洞は多くの寺院の復興とともに山口仏教会館、伊藤忠兵衛は女子教育の推進などのために芦屋仏教会館、田代重右衛門は門徒惣代の立場から大谷仏教会館を実現に努力します。

建設の動機は、単に自宗の宗派を広めるというのではなく、仏教を通しての社会貢献・文化活動であったと思われます。そのことは、戦後、大谷仏教会館を修復して「文化会館」とする計画をたてた南御堂にもみることができますし、現在にいたる芦屋仏教会館の活動からも窺えます。仏教会館は、「文化」や「教育」に社会が大きく関心を寄せた時代を背景として生まれたのではないでしょうか。

注8)『山口玄八十年史』、宮本又次『船場』 9)芦屋市立美術博物館発行「芦屋仏教会館」 10)竹村民郎『大正文化』

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