植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長。近世・近代の大阪の建築や都市史の研究のほか、民家調査や登録文化財申請などに従事。編共著『近世大坂における蔵屋敷の建築史的研究』、『平野区誌』、『図解建築用語辞典』、高校教科書『建築計画』など。

植松清志

大阪市立大学大学院博士課程修了。学術博士、一級建築士。大阪狭山市文化財保護審議会副会長。近世・近代の大阪の建築や都市史の研究のほか、民家調査や登録文化財申請などに従事。編共著『近世大坂における蔵屋敷の建築史的研究』、『平野区誌』、『図解建築用語辞典』、高校教科書『建築計画』など。

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    三(さん)仏寺(ぶつじ)投入堂(なげいれどう) -地域のお宝さがし-92

    在地:鳥取県東伯郡三朝町三徳1010 ■三仏寺投入堂・愛染堂■  投入堂(平安時代後期、注1、図1)には、「修験道の祖、役行者(役小角)が空中に投げ入れてつくったところから、この名がついた」という伝承があります。また、年輪年代法による測定の結果、建立は、さらに1世紀ほどさかのぼることが明らかにされたそうです(注2)。  投入堂は近づくことも、内部に入ることも困難なので、堂に関する記述と写真とを照合してみましょう。 注1)文化庁編集『国宝・重要文化財建造物目録』(以下、目録

      • 三(さん)仏寺(ぶつじ) -地域のお宝さがし-91

        所在地:鳥取県東伯郡三朝町三徳1010 ■三仏寺■  三仏寺は、鳥取県三朝町の三徳山に位置する天台宗の寺院です。役行者(えんのぎょうじゃ)が慶雲3年(706)に創建し、嘉祥2年(849)に慈覚大師が山麓に堂を建立し、三仏(釈迦・阿弥陀・大日)を安置したとされています(注1)。寺院は、山麓の三仏寺と山頂に至る、文殊堂・地蔵堂・鐘楼堂・納経堂・観音堂・元掛堂・不動堂・投入堂(なげいれどう、注2)・愛染堂で構成されています(図1)。  「三仏寺」といえば、絶壁にへばりつくように

        • 建築家小笠原祥光の仕事⑧ -地域のお宝さがし-90

          ■商業建築■  今回紹介する伊藤萬商店(昭和8年竣工、後掲図6)(注1)は、小笠原の設計活動の中期に位置し、その円熟した意匠と規模からも、小笠原の代表作品とよべるものです。 注1)様式は近世復興式(『復刻版近代建築画譜』2007年) ●伊藤萬商店●  伊藤萬商店は、昭和6年12月に起工しますが、これ以前の設計段階における外観透視図(5点)が残されています。これらの透視図をもとに、最終の立面が決まるまでの、意匠の変遷を見ていくことにしましょう。 1)A案(図1、昭和6年8月

          • 建築家小笠原祥光の仕事⑦ -地域のお宝さがし-89

            ■商業建築■  前回は、小笠原祥光が設計した商業建築のうち、装飾系意匠の作品を紹介しました。今回は、簡略化された非装飾系意匠の作品を紹介します。小笠原の作品は、非装飾系意匠の作品が多いことから(第88回表1)、16年間の設計活動期間を、前期(大正10[1921]~15年)・中期(昭和2[1927]~6年)・後期(昭和7年以降)に分けて、各期の作品を見て行きます。なお、建築時期が不明な作品は、便宜上、後期に分類しています。 ●非装飾系意匠の作品● 【前期】 ①安宅商会(大正1

            建築家小笠原祥光の仕事⑥ -地域のお宝さがし-88

            ■商業建築■  建築家小笠原祥光が、16年間の設計活動期間に携わった仕事は、判明するだけで116件におよびます(注1)。その中で、写真などで意匠が判明する作品は35件です(表1)。  このうち、洋風意匠は29件で、内訳は、商業建築23件、住宅3件、教会・学校3件です。大阪で設計活動をした建築家は、大阪以外では西日本での仕事がよく見られますが、小笠原は東京でも4件確認されます。なかでも、銀座館(銀座三越、昭和2年[1927])と山王ホテル(昭和5年)は注目されます。  小笠原

            建築家小笠原祥光の仕事⑤ -地域のお宝さがし-87

            ■大阪北港株式会社経営の貸家■  大阪北港株式会社(以下、北港住宅)は、「大阪築港を北方へ拡張し、正蓮寺川沿岸一帯の所有地の開発」を目的として、大正8年(1919)に設立されました(注1)。  小笠原祥光は、同社が開発した地区のうち、「大阪市内に於て空気の最も清鮮なる」(注2)酉島町・春日出町(約3万坪)に、道路・下水を完備し、水道・電灯・ガスを供給し、「市電の便利を有する市内稀なる田園都市的住宅地」を形成し、大正10年から昭和3年(1928)まで継続的に貸家(約500戸)や

            建築家小笠原祥光の仕事④ -地域のお宝さがし-86

            ■小笠原建築事務所■  小笠原祥光は、住友総本店在職中の大正6年(1917)、関西建築協会(大正7年に日本建築協会と改称)の設立に参加し、委員などを歴任します。そして、大正10年2月23日に日本建築士会に入会(注1)、同3月、自宅にて小笠原建築事務所を開設します。判明する所員は、長澤栄作・久田見治平・木下喜三郎の3名で(注2)、昭和2年(1927)に、事務所を北区曾根崎の曾根崎第一ビル41号室に移転します。所員は、事務所が閉鎖される昭和12年まで3~5名程度です。  他の建築

            建築家小笠原祥光の仕事③ -地域のお宝さがし-85

            建築家小笠原祥光が建築事務所を開設する以前の仕事を紹介します。 ■鉄道院時代■ ●萬世橋駅●  萬世橋駅は、甲武鉄道が明治22年(1889)に立川~新宿間を開通させ、その延伸のため設けられる予定でした(注1)。新駅舎は、大熊喜邦(横河工務所勤務)の設計で工事が着手されていましたが、同社が明治39年に国有化されたため、改めて明治41年に鉄道院から辰野葛西建築事務所(以下、辰野事務所)に設計が委託され(注2)、同42年8月10日起工、同44年9月18日に竣工し(注3)、翌45年

            建築家小笠原祥光の仕事② -地域のお宝さがし-84

             前回、小笠原の建築活動を鉄道院時代・住友総本店時代・建築事務所時代の3期に分けました。ここでは、鉄道院時代の活動を見ていきます。 ■鉄道院時代■ ●職務●  小笠原の鉄道院における職務などが窺える手帳(以下、手帳)を見ると、 「Memorandum」と記された下部に、「明治卅七年四月廿六日達 明治卅七年度自己担当区域内工事保有費配布予算費」とあり、「橋梁」・「柵垣」・「停車場」・「有料官舎」・「無料官舎」・「事務所」などの修繕費が記されていて(図1)、小笠原の職務が、各施

            建築家小笠原祥光の仕事① -地域のお宝さがし-83

             建築家小笠原祥光(以下、小笠原)は、大正6年(1917)2月に関西建築協会(現日本建築協会)の創立に参加し、同協会理事、材料委員会幹事、住宅改造博覧会場委員会幹事などを歴任し、また、『近代建築画譜』(同書刊行会、1936年)の刊行後援者にも名前を連ねるなど、戦前からその存在が知られ、論考(注1)などにも取り上げられていますが、詳細については不明な点が多くあります。  そこで、今回から小笠原の経歴・設計活動・作品の意匠などを紹介します。 注1)石田潤一郎「大阪建築家列伝」(

            「狭山藩陣屋」の武家屋敷 -地域のお宝さがし-82

            ■武家住宅の遺構―笠原家住宅―■ ●家柄●  狭山藩笠原家の初代は、宝暦5年(1755)11月、医業により出仕した「笠原同竹棟里」と考えられます。その待遇は給人席(中級藩士に相当)で、医師・儒官を勤めました。2代目は「笠原玄白棟宜」、3代目「笠原玄龍」は「医業・学業両面において狭山藩医として充実した活動」を行いました。4代目の「笠原玄策」は、 嘉永7年(1854)、「評定所」に設置された学問所(「簡修館」)を担うとともに、「儒書詩文」を担当し、藩士の教育にも尽力した家柄です(

            絵図を読む③「陣屋の居住者」 -地域のお宝さがし-81

            ■狭山藩陣屋の居住者■  陣屋図(上屋敷図[図1])・と下屋敷図[図2])には、改名後の氏名や姓のみの記載があり、陣屋図の作成時に「名」が不詳な居住者がいたことが分かります。それらを、「御家中順席人員」(明治2年[1869]、以下人員)と「旧藩人現在員」(明治29年、以下現在員)から見てみましょう(注1)。なお、図1の道路名称には「横小路」が2本あるので、便宜上、北部を「北横小路」、中央部を「中横小路」とします。 注1)狭山藩「北条家文書」所収「旧狭山藩家中人名簿」(以下、

            絵図を読む②「大阪狭山藩陣屋」 -地域のお宝さがし-80

            前回は、大阪狭山藩陣屋の様相を見ましたが、今回は藩士住宅などを紹介します。 ■陣屋の景観■  狭山藩士は、小田原以来の旧臣と藩主の親族、河内移封後に召し抱えられた家臣に分かれます。旧臣は朝比家(分家2)・山上家(分家2)・井出家(分家3)、親族は舟越家・江馬家で、上級藩士に属します。上屋敷図の「大町筋」に面する広い敷地が、概ね上級藩士の住宅です(図1)。 図1 上屋敷図 ●土地拝領●  上級藩士には土地のみが与えられ、住宅は各自で建築し、庭や菜園を設けたようです。拝領地

            絵図を読む①「大阪狭山藩陣屋図」 -地域のお宝さがし-79

            ■陣屋ってなに?■  陣屋とは、江戸時代における、1~2万石の無城の小大名などの屋敷をいいます。城郭に準ずるものですが、石垣はなく、周囲に土塁や堀をめぐらせ、御殿(居館)・役所・藩士の住宅・調練場などが配置されていました。 ■大阪狭山陣屋は上・下に分かれていた■  狭山藩の藩主北条家は、戦国大名後北条氏に続く家柄で、藩祖氏規(うじのり)は、伊豆韮山城主でしたが、天正19年(1591)河内に移封されます。慶長5年(1600)、初代藩主氏盛(うじもり)の時に11,000石の大名

            豪華客船をデザインした建築家達 -地域のお宝さがし-78

            ■豪華客船の室内装飾■  わが国における客船の室内装飾(インテリアデザイン、以下デザイン)は、昭和初期までは主にヨーロッパに発注していました。ところが、昭和4年にサンフランシスコ航路に就航し、「太平洋の女王」と愛称された日本郵船の「浅間丸」では、上級船客用の公室であるラウンジ(社交室)・食堂・喫煙室などにはイギリスの様式が採用されましたが、それ以外の特別客室などには、日本風のデザインが採用されており、技術と経験の蓄積が窺われます(図1、注1)。昭和5年以降は、海外への発注が減

            豪華客船の設計者建築家中村順平②-地域のお宝さがし-77

            ■帰国後の中村順平■ 中村の帰国後の活動を見ておきます。  ●履歴2(帰国後)●(注1) ・大正13年(37歳):1月帰国。国民美術協会主催帝都復興創案展に「大東                                 京復興計画」を出品。 ・大正14年(38歳):国立横浜高等工業学校建築学科開設に伴い同科の主任                                教授として赴任。東京日本橋に中村塾を開設、建築士