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エジプトの建築-ピラミッド②-地域のお宝さがし-119

■中流域の神殿建築Ⅰ■
 今回は、ナイル川中流域(図1)に建造された神殿をみていきます。

図1 エジプト要図

●メントヘテプⅡ世葬祭神殿・ハトシェプスト女王葬祭神殿●
 メントヘテプⅡ世葬祭神殿 首都がテーベ(現ルクソール)におかれた中王国時代(前2040~1786年)の、第11王朝(前2130~1991年)頃から、メントヘテプⅡ世葬祭神殿(前2061~2010年)のように、テラスの上にピラミッドが配された形式の神殿が建造されますが、やがて、ピラミッドがなくなり、新王国時代(前1567~1085年)の第18王朝(前1567~1320年)には、中庭が残されたハトシェプスト女王葬祭神殿(前1490~1468年頃、以下、女王葬祭神殿)が建造されます(図2、注1)。両者を比較すると、規模・構成の違いがよく分かり、建造年から発達の状況が窺えます。

図2 葬祭神殿復原図

 女王葬祭神殿 『西洋建築史図集』の写真やエジプトの強い日差しから、女王葬祭神殿の外観は「白」と思っていましたが、現地に行くと赤みがかっていました(図3)。最下層が「第1テラス」、中段の2層は「第2テラス」と「広間」、最上段の壁面の向こうが「第3テラス」の構成です。

図3 女王葬祭神殿正面

 「第2テラス」の正面は角柱ですが、その奥の柱は多角柱で、壁画には彩色が残されています(図4)。上部の「広間」の正面は、角柱と人体像の付け柱になっています(図5)。

図4 「第2テラス」奥の多角柱・壁画
図5 「広間」正面の柱

 「第3テラス」正面の壁面にはレリーフが施され、半円状の付け柱、壁面下部にはニッチ(凹み)が設けられ、壁面間の縦長のニッチには人体像が残されています(図6)。また、「第3テラス」の中央部付近には、レリーフが施された多角柱の上部に正方形の板材(アバクス)をのせ、柱の芯々に梁を架けた「まぐさ(楣)式」の構造物が残され、その上部材にも彩色が確認されます(図7)。

図6 「第3テラス」正面
図7 「第3テラス」中央部付近の「まぐさ式」構造物

 エジプトの重要な建築物には、「まぐさ式」構造が用いられたため、広間を設けるには多数の柱を建てる必要がありました。

 注1)『西洋建築史図集三訂版』(彰国社、1990年)より、転載、加工。本               稿に関する記述は、『西洋建築史図集三訂版』、『新訂建築学大系5               西洋建築史』(彰国社、1976年)、『世界の建築第1巻古代オリエ                 ント・古代アメリカ』(学習研究社、1983年)、『フレッチャー世              界建築の歴史』(西村書店、1996年)などによる。

●アブ・シンベル神殿● 
 アブ・シンベル神殿(前1301頃)は、新王国時代(前1567~1085年)の、第19王朝(前1320~1200年)のラムセスⅡ世によって、岩壁に前面を刻み、岩山に多柱室を掘り込んで建造されました。神殿は、大神殿と小神殿があり、大神殿の前面に4体のラムセスⅡ世像が設置されています(図8)。

図8 大神殿

 この神殿は、ナイル川に設けられるアスワン・ハイダムの建設により、水没の危機にありましたが、ユネスコの救済活動により(1964~1968年)、分割され、60m上方にコンクリート製のドームを設置し(図9、注2)、移築されました。前面の石像などには切断した際の跡が残されています(図10)。大神殿の正面右側に、王妃のために建造された小神殿が位置しています(図11)。

図9 大神殿断面図
図10 切断の痕跡
図11 小神殿

注2)『地球の歩き方E02エジプト』(ダイヤモンド社、2008年改訂第17版                第2刷)より転載、加工。

●メムノンの巨像●
 メムノンの巨像は、新王国時代の、第18王朝のアメンヘテプⅢ世(在位前1386~1349年)の葬祭神殿の入口に設置されていました(図12、注3)。葬祭神殿は、ハトシェプスト女王葬祭神殿の南部に位置していましたが、第19王朝(前1320~1200年)時代に破壊され、この巨像だけが残されています。また、右側の像には、地震(前27年)によるヒビが入っているそうです。

図12 メムノンの巨像

注3)ウィキペディア「メムノンの巨像」

■閑話休題■
 首都がメンフィスからテーベに移り、時代が下がるにつれて、ピラミッドが建造されなくなり、「王墓+葬祭神殿」などの複合体から、独立した神殿が建造される過程が窺えます。それにつれて構造も、煉瓦や石材の「組積造」から、柱を立て、梁を架けた「まぐさ式構造」に変化していきます。

 ところで、「大神殿」の写真を見ていて、工高2年生で「西洋建築史」を習ったとき、教科書には「大神殿」(図8)の写真だけが掲載されていたので、規模が大きいから「大神殿」だと誤解していたことを、思い出しました。「小神殿」があると知ったのは大学生になってからで、今思えば、「冷や汗」ものです。

次回は、新王国とプトレマイオス朝の神殿建築を紹介します。

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