毒母はわたしが産まれる前から、某信仰宗教の信者になり、入会してから1年後にわたしを授かったので、この宗教を本物だと思い込み余計にハマってしまったらしい。専業主婦だったので、朝から晩まで信仰宗教の活動ばかりに一生懸命だった。だから家に帰って来たら、その宗教で会っていた人たちの愚痴悪口ばかり聞かされたのだ。 毒母は「自分は一家一族の分までがんばって宗教活動してるんだから、家事が出来ていなくても許されるんだ!」とかよく分からない事を言っていて、家の中は常に汚部屋だった。 また
長男は赤ちゃんの頃からなかなか寝ない子だった。お昼寝もしなかった。わたしも寝れないので、ヘトヘトだった。 長男の精神的な発達もゆっくりめだし、不眠症と発達の遅れがありそうだとなんとなく思っていた。にしても言葉を覚えるのは周りより早かったので異常だとは検診でも言われなかった。でも長男はいつも優しく笑顔なのでみんなから好かれる子だった。 小学3年生の時に、担任から漢字が覚えられず、文章問題が理解できないので、発達検査を受けてみて下さいと言われ、受けた結果が視覚優位の発達障害
わたしは機能不全家庭で育ってきて、とても辛い幼少期を過ごしてきて、自分と同じような人を少しでも支えられたらとの思いで、心理学の学べる短大に進み、その後大学へ編入学した。 あまり、勉強は得意ではなかったが、今までで1番勉強できたのは大学生の時だと思う。編入学なので、単位は80程度になり、遊ぶ暇もなく、授業や実験のレポートと卒論に追われた。でも、自分の決めたことだし、親にも学費を出してもらったんだからと、必死にがんばった。 その他にも母親が宗教活動にも熱心で、わたしも宗教関
わたしが幼稚園年中の頃、母が突然、友達の知り合いから猫を譲ってもらえる事になったと、ダンボールに入った生後3ヶ月のグレーの男の子のかわいい子猫を見せてくれた。とっても可愛いくて、わたしはすぐに子猫に夢中になった。それからわたしは、家の中でも寂しさを感じずに済んだような気がしている。子猫と遊んだり、お世話をしたり、抱っこしたり、たまに嫌がられて引っかかれたり、噛まれたり。一緒に布団で眠ると温かくてとても幸せだった。 だけど、グレーの猫との別れは意外に早かった。わたしが8歳の
常に毒両親からの嫌そうめんどくさそうな対応とマイナスな言葉をかけられていたわたしは、無気力でまともに人とコミュニケーションが取れなかった。何事にも消極的で覇気がなくやる気も自信も無かった。習い事は自分で決めた事もあり、頑張れた部分も多少あったが、特に嫌だったのは学校だった。 まず、学校の独特の匂いとホコリっぽさが無理だったし、当時は冷暖房もなく、寒い気候の地域だったので校舎内は寒くてよくお腹を壊してトイレに駆け込んでいたことが多かった。牛乳が苦手で、担任に「お腹が痛くなる
🙆♂️毒父のいいところ 散々マイナス面を書き込んだので、プラス面も書いておこうと思う。 車を運転〔ただし、超絶運転荒い😰〕するのが好きなので、日曜日は必ずどこかに連れて行ってもらった。九州に住んでいた頃はよく九州の観光に車で行けたのだ。四国が父の出身だし、東北が母の出身なので、帰省しながら、他県の観光を楽しむことができた。沖縄以外の46都道府県に未成年の間に行けたと思う。それだけは感謝している。心からありがとう❤️ 🙆♀️毒母のいいところ 料理が上手だったこと
毒母 とにかく言葉使いも悪く、娘のわたしからしたら、常にイライラしていたという記憶しかない。発する言葉も、さっきまで会っていた人たちの悪口や愚痴で、それをわたしに聞いてもらって毒母だけスッキリし、わたしはモヤモヤするのが常だった。ご飯だけはちゃんと作ってくれたが、常に不機嫌で眉間に皺を寄せて、ガナリ声で躾けと称して随分酷い事を言われてきた。 毒母の地雷に触れると、わたしがごめんなさいと号泣するまで、何時間(3時間〜5時間)でも怒り続け、揺さぶられたり、ビンタされたりした。
わたしは毒両親育ちです。 横柄な父親とヒステリックな母親の元に ひとり娘として誕生しました。 その時点で人生詰んでました。 毒父 エリート商社の経理や監査の仕事で平日勤務で夜9時前後に帰って来ていた。テレビとタバコとパチンコ大好き人間で、帰って来たら、「ただいま」くらいは言っていたが、夜ご飯は相当量あるのに毎回3分以内に食べ終わり、そのまま室内で喫煙しながらずっとテレビを見始める。そしてテレビ見ながらお菓子やピーナッツを食べ続ける。もちろん肥満が凄かった。ビデオに録画した