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一番は誰だ?(ショートショート)

 柏原美羽がキーボードを叩く音が、がらんとしたオフィスに響いている。美羽がエンターキーを押して手を止めると、次は時計の音だけがやけに響いた。美羽は伸びをしながらオフィスを見回した。誰もいない。時計は午後十一時過ぎを示していた。

 息を吐きながら伸ばした腕と背をだらんと垂らした。終電までには終わらせたい。そんな一心で美羽は再度モニターと向き合った。
 そんなとき、なにかを床に打ち付ける音が廊下から小さく聞こえてきた。それは美羽のいる部屋の前を通って、さらに奥へと進んでいく。ヒールを履いた人の足音だ、と美羽はすぐに分かった。
 美羽は忍び歩きでデスクからドアまで歩いていった。ゆっくりと開けて、廊下を覗く。栗色の巻髪、ピンクのカーディガンに白いペンシルスカート、ベージュのパンプス。その後姿を見て、すぐに後輩の片山絵未花だと分かった。絵未花は突き当たりにある会議室へと入っていった。少し悩んで、美羽は後を追った。ヒールが鳴らないように忍び足で暗い廊下を歩き、会議室のドアの前で立ち止まる。いきなり開けたら怖がらせるだろう。美羽はドアをノックした。返事は無い。再度ノックして、声をかけた。
「狭山さん? 柏原だけど、どうしたの?」
 会議室からカツカツと狭山が近づいてくる音がする。そしてすぐドアが開かれた。
「……柏原先輩、まだ居たんですか?」
「うん。それより、どうしたの? 忘れ物?」
「はい。忘れ物というか、落とし物です」
「一緒に探そうか?」
 会議室の中で、絵未花は言い淀んだ。
「いえ、大したものではないので」
 美羽は訝しんだ。大したものでは無いのに、わざわざこの時間に探しに来るだろうか。
「いいよ、私もちょうど息抜きしたかったし」
 美羽は彼女の脇を抜けて会議室へ入る。白い長机が中央を囲むように四角く並び、更にその机を囲むように椅子が綺麗に配置されている。
「あの、リップ落としちゃったんです」
「……リップ?」
「はい、別に高いやつじゃないんですけど」
 貰い物で、と絵未花は続けた。
「そっか」
 美羽は昼間のミーティングを思い出す。入口付近の左手側に彼女は座っていたはずだ。その近くにしゃがんで床を見回す。
「どんなの?」
「ピンクです。ちょっと金色の模様が入ってます」
「ふうん」
 すぐには見当たらない。リップスティックは転がりやすいから、離れたところにある可能性も高い。案の定絵未花は自分が座っていた位置と離れた場所にしゃがみこんでいた。
「彼氏に貰ったやつなんです。さっき気がついて、慌てて戻ってきたんですけど」
 絵未花は会議室の奥でしゃがみこんでいる。美羽は彼女の表情を見ることができない。だけど声のトーンでなんとなく分かる。絵未花は自慢をしたいのだ、と。
 案の定、絵未花はペラペラと話しだした。彼氏といかにいい関係にあるか、という惚気話を、一方的に絵未花は語る。美羽は適当に相槌を打ちながら、じわじわと苛立ちを積もらせていった。いい加減、話の腰を折ってやろうか、と思った瞬間に、あっ、と絵未花が小さな声をあげる。美羽は反射的に振り向いた。
「あった!」
 絵未花はパッと立ち上がった。ピンク色の小さなリップスティックが右手に握られていた。
「ありましたよ先輩!」
 美羽の方を振り向いて、絵未花はひらひらと右手のリップを揺らした。見た目こそ華やかだが、ドラッグストアで買えるプチプラコスメだ。それを見た美羽は思わず笑ってしまった。すぐに絵未花の顔が陰る。
「ねえ、それ? それ探してたの?」
 美羽の態度が気に入らなかったのだろう。絵未花はあからさまに不機嫌な声で反論しようとした。
「だから、彼氏に」
「そんな安物しか買ってもらえないんでしょ?」
 美羽は笑いながらポケットに手を入れた。中に入っているグロスを取り出して、先程の絵未花と同じように右手で揺らして見せつける。
「私が陸に貰ったのはこれだけどね。あ、狭山さん見ても分かんないか。ディオールだよ」
 絵未花はあからさまに顔をしかめた。美羽はそれが面白くて仕方がなかった。
「陸の給料いくらだと思ってんの? マジョマジョって! ねえ、それ本当に大切にしてるの? 貰って嬉しかったの?」
 絵未花が黙ったままなのをいいことに、美羽はさらに続けた。
「自慢になると思った? 私が嫉妬するとでも? それっぽっちのものしか買ってもらえない貴方に? 笑わせないでよ。探してる間ずっと自慢げに話してくるからさあ、きっと私がギリギリ歯噛みするほどいいもの買って貰って、」
「私は陸さんから貰ったものだから大切にしてるんです。あなたみたいにお金や高級品が目当てじゃ無いんです」
「私だって別に金目当てじゃないけど。これだってねだったわけじゃないよ。美羽に似合うと思って、って言って買ってきてくれたやつだし」
「私だってきっと似合う、って……」
「そう。じゃあプチプラがお似合いの安っぽいやつって思われてんじゃない?」
「陸さんはそんな人じゃないです。ていうか、言ってましたよ? 美羽は金がかかって困る、って。愛されてるのは私の方です。先輩こそ、見た目と情だけで相手してもらってる自覚持ったらどうですか?」
 絵未花は鼻を鳴らしながら得意げに言った。それが美羽の癇に障った。
「じゃあ直接聞いてみようか?」
 美羽はポケットからスマホを取り出した。紫色の手帳型ケースを開いて、木津川陸アプリから電話をする。
 木津川はなかなか電話に出なかった。長い間、発信音だけが会議室に響いた。数十秒後に、やっと発信音が止んだ。
「もしもし陸? あのさ」
「なに? なんで電話してきた?」
「ごめん、あのね」
「平日の夜はかけてくるなって言ってるよな? 嫁にバレたらどうしてくれんだよ」
「……ごめん」
「で、なに? 急ぎ?」
「いや、……ごめん」
「……明日でいい?」
「うん」
 電話は一方的にさっさと切られた。美羽はうつむいてスマホの画面を見ていた。顔が上げられなかった。
「……振られるのも時間の問題みたいですね」
 絵未花は嬉しそうな声でそういって、会議室を出ていった。
 足音が止んだのを確認してから、美羽は事務室に戻った。ため息を付きながら、自分の椅子に深く座る。やけに大きく聞こえる時計に目を向けた。終電の時間は過ぎていた。

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