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四月一日の魔法(ショートショート)

 隣の彼女は、ワンレンの前髪ごと耳へかけた。露わになったフェイスラインは先週のそれとは明らかに違っていた。

 彼女が私の部屋に来るようになったのは去年の秋だった。高校から真っ直ぐ帰ってきた日だった。いつものようにリビングのドアを開けると、かしこまったお母さんの向かいに彼女が座っていたのだ。
「来週から来てくださる家庭教師の先生よ」
 家庭教師なんて聞いてないよと文句を言うより先に、彼女は立ち上がってニコニコと私にお辞儀をした。
「元宮です。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
 私が言い終わるとほぼ同時にお母さんが
「本当にお願いしますね、うちの子全然勉強しなくて」
 と被せてくる。そのままお母さんは携帯ばっかいじってるとかあんまり友達と出かけたりしないとか、勉強に関係ない話まで始めてしまった。初対面かつこれからしょっちゅう顔を合わさなきゃいけない人にそんな話をしないで欲しいと本気で思ったが、割って止めに入る勇気も無くただ俯くしかなかった。たまにチラリと盗み見ると、彼女はそんな関係無い話にもにこやかな表情で頷いていた。
 満足するまで喋り倒したお母さんに連れられて玄関まで彼女を見送った。
玄関が閉まると
「ちゃんと来週までに部屋の掃除しときなさいよ」
 と釘を刺された。
 私は渋々部屋の掃除を始めた。散らかった漫画を棚に押し込み、学習机はノートや参考書を広げられるように片付けた。一階から掃除機を持ってきてドアのすぐ横のコンセントに刺した。そのままぐるっと部屋を見回してみた。彼女がここにいる姿を想像することはできなかった。
 それでも次の火曜日に彼女はやってきた。普段使ってる参考書とノートを見せてほしいと言われたので私は差し出した。彼女はそれをペラペラとめくりながら言った。
「勉強きらい?」
 学校の友達が相手であれば私ははっきりと嫌いだと答えただろう。しかし先生と呼ぶべき相手に向かって勉強が嫌いときっぱり言うのは憚られた。しかし好きだと嘘をついて自らハードルを上げるのは嫌だし、何より先週の時点で勉強をしないことはお母さんにさんざんバラされている。
「……あんまり好きじゃない、です」
「そっか」
 彼女は私が授業中に適当に書いたノートを閉じた。声も顔も怒っていなかった。
「私もね、ホントは好きじゃないの」
 そういっていたずらっ子のように笑った。

 彼女は大学生で、家庭教師はアルバイトらしい。公立のS大学に通っているそうだ。このへんでは結構偏差値の高い大学だったと思う。たしかうちのクラスの頭のいい女子がこの大学を志望していたはずだ。
「高校時代から去年まではコンビニとかファミレスとかのバイトを転々としてたんだけど、疲れるんだよね。カテキョバイトはいいよ。一対一だからせかせか動くこともないし、準備も家でゆっくりできるし。あと時給も高いから」
 彼女は私のベッドに腰掛けて足をブラブラさせている。参考書や教科書、ノートは閉じた状態で勉強机に積まれたままだ。私はその勉強机の椅子に座りながらも、机には背を向けて彼女の方向へ椅子ごと体を向けていた。
 ドアのさらに向こう側から階段を上がってくる足音がする。彼女はさっと立ち上がった。私のすぐ隣へやってくると積まれたままだった参考書とノートを隣り合わせになるように机に開いた。さらに机の隅に置かれた私のペンケースを開いて、シャーペンをこちらに差し出した。
「はい、持って」
 シャーペンを受け取ると同時に身体ごと視界がぐるりと動いた。彼女が背もたれを掴んで回転させたのだ。そうして私が机に向かって勉強しているかのような姿勢になる。そしてドアがノックされた。
 先週に先生と話していたときの声、もっといえば電話に出るときの声が外から聞こえてくる。
「失礼しますう」
 開いた先には器用に片手でトレイを持つお母さんがいた。上にはカップとケーキが2つずつ載っている。心配して見にきたというよりは好奇心に任せて覗きにきたのだろう。あからさまににやけた顔をしている。
「どうですか? うちの子まじめにやってます?」
「ええ、まあ」
 明るい声で先生は言った。お母さんの方を向いているから顔は見えない。きっと笑顔だろう。
「出来が悪くてびっくりしたでしょう? 先週も言いましたけど、うちの子は本当に勉強しないんですよ」
「そんなことないですよ。ノートを見る限り理解力は高いほうです。本人がやる気さえ出せばきちんと伸びるタイプだと思います」
「本当ですか? いや私もね、いい大学に入ってほしいなんて思ってるわけじゃないんですよ。せめて名前を言っても恥ずかしくないところに行って、中小企業でもいいから正社員で働いてくれればそれでいいんです」
「お母さん、それ置くところないよ」
 話が長くなることを悟った私はお母さんの言葉を遮った。私の部屋にある机はこの勉強机だけだ。そしてそこには今日はまだ一度も使ってない参考書とノートが広がっている。
「少し休憩にしましょうか」
 彼女はお母さんからトレーを受け取った。私は彼女の背後から、あっちへ行けと手でお母さんにジェスチャーをしながら片手で参考書とノートを閉じた。
 結局この日はまともに勉強なんかしなかった。

 大学に属する人間に私は関わったことがない。数時間前リビングにいた彼女は大人に見えた。だけど周りにいる大人よりずっと柔らかく見えた。大学に入る、大学生になる。今までピンとこなかったそれが、彼女という形で徐々に輪郭を帯びてくるようになったのだ。

 彼女は学習机に広げられた参考書の上をキャップをしたままの赤ペンでなぞりながら何かを言っている。お母さんはこの何かを私に聞かせるために毎月何万円も払っているらしい。私が気にするべきことではない。恐らくお母さんもそう望んでいる。
「先生、それどうしたの」
「ん? どれ?」
「顔のやつ」
「ああ、これね」
 彼女は左手を顔に当てて笑った。ファンデで隠しきれなかったであろう、細かく付着していた剥けた薄皮は、彼女にとって照れくさいものらしい。
「海行ったら日焼けでね。痛いの治ったら今度は剥けてきちゃった」
 日焼け止めちゃんと塗ったんだけどなあ、と気の抜けた声で彼女は続けた。誰と、とは聞けなかった。先生って彼氏いるの、そんな雑談すら数ヶ月切り出せないでいた。
 幼稚園を卒業する前におばあちゃんに買ってもらった勉強机に座ったまま、私は彼女を見上げていた。制服も着たままだ。彼女が来る前はいつもクローゼットをひっくり返す。そして諦めてまた制服を着る。
「いいなあ。私も海行きたい」
「大学入ればいくらでも行けるよ」
 それだけ言って彼女はまた参考書の文をなぞり出した。赤ペンを握る指の先は綺麗なベージュ色だ。所々にストーンもついてる。服も気取ってないのに垢抜けていて、髪だって黒なのにダサくない。
 大学入れば、大学生になれば、と彼女はよく口にする。言われるたびに私は嘘だ、と内心悪態をついている。合格さえすれば私も四月一日から大学生だ。三月三十一日までは高校生扱いらしい。違いなんてそれだけだ。それとも四月一日が来ると同時に魔法使いでも来るのだろうか。だからみんな必死に勉強するのだろうか。
「先生と行きたい」
「……いいよ。ただし二年の夏まで覚えてたらね」
「なんで二年生?」
「んー、なんとなく」
「来年でいいじゃん。先生社会人になっちゃうよ。遊べないでしょ」
「就活中の方が余計遊べないでしょ」
「そうなの?」
「そうだよ」
 受験生が遊べないのと一緒だよ、と先生は笑った。本物っぽいのにやたら睫毛が長い理由も、唇がずっと艶々したままな理由も分からなかった。


 ビキニを着た友達たちがいつもより高いテンションで何か言っている。私もビキニを着ている。この二年間の内に他の選択肢が消えてしまった。友達たちも同じらしい。
「先生と来たかったんだよ」
「なに?」
「何でもないよ」
 低い声でつぶやく私を、沢山いる友達のうちの一人が不審がっている。その数メートル先にいる青い水着の友達は、五日前に元宮先生と一緒に海へ行ったらしい。交流会と称して、塾講師のバイトも家庭教師のバイトも両方集めて毎年大規模に開催してるらしい。
「なんでまだバイトなんだよ」
 友達たちは上手く立てられないパラソルを掴んで笑っている。その周りにも、奥の海にも沢山の人で溢れていた。
 いつからだろうと考えてみた。たぶん、四月一日に解けてしまったのだ。
 無理を言ってでも生徒のうちに連れてきてもらえばよかった。自分の剥き出しのお腹を見て、思わず涙が出そうになった。

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