思いを言葉にするということ

仕事帰り、蕎麦屋へ行く。
蕎麦屋というより「そば屋」に近いリーズナブルさと大衆感。

店前のメニューの前で立ち止まる。
お昼なに食べたっけ?
そうだ、今日の昼は中国人が小さなテントの中で路上販売している怪しさ満点の弁当、通称、闇市弁当を食べたんだった。

きくらげと小松菜、ニンジンが入っていたから、一応の野菜は摂った。
これで堂々と肉を食える。
カツ丼とそばのセットをモバイルSuicaで支払う。
券売機にはうどん品切れと付せんがある。
ここ最近寒いから風邪の人が多いのかな。

「あったかいそばで」と店員さんに食券をわたす。
「卵でとじるから待っててね~」と店員さん。

セルフで水を汲みながら、
「あったかいそばで」の「そばで」はいらなかったよな、
もともとうどんは品切れなのだから、そばは確定している。
「あったかいので」と言った方が察しが良くて仕事ができるビジネスマン風でかっこよかった。

言葉にしないと意味が、思いが伝わらない。
たしかにそうかもしれない。
「そばで」を付けたからこそ、念のための確認も不要になって、
店員さんも今日何度目かの「今日うどん無いんです」を言わなくて済んだのかもしれない。のども酷使して風邪をひかなくて済んだのかもしれない。

だけどもあえて省略したい。
省略の中に格好良さが濃い密度で含有されている。
省けば省くほど増していく。
かの有名な千と千尋の神隠しでの「千」と「白」。
名前のほとんどを取られたけれど、だからこそ残った一部が際立つ。
「そばで」を省略することで「皆まで言うな」的な暗黙の了解が成立する。
この暗黙の了解こそが客と店員の、ひいては大人同士の粋なのである。

行間を読むこと。
それは、言葉と言葉の間の空白に集中するということ。
すなわち、相手のこころを想像するということ。

出来上がったカツ丼を頬張ると、カツが冷たかった。
それはカチカチに硬くて固くて、咀嚼できなかった。
「このカツ冷えてるんですけど」と伝える。
店員さん「すぐ作り直しますね~」と一瞥もせず。

すぐに作り直されたカツ丼が提供された。
だけど、欲しいのはこれじゃない。
まずは「ごめんなさい」が欲しかった。それだけで十分だった。

なるほど。僕には大人の粋はまだ早かった。
言葉で伝えて済むくらいなら、省かずに言葉にしていこうと思った。



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