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新しい年、新しい私に。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章1-2節 (新共同訳)

明けましておめでとうございます、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

中学生くらいの時に、「正月って何がめでたいんじゃい」なんてナナメな態度をとってみたりしたことを思い出しました。12月5日も12月25日も12月31日も1月1日も1月5日もみーんな同じ「1日」なのに、どうして「12月31日から1月1日に変わる」、それも「人が恣意的に引いた、『年の変わり目』という区切り」にそんなに振り回されなきゃならんのか、などともやもや考えたり。単に大掃除が嫌なだけだったのかもしれない(笑)

今は逆のことを感じています。何でもないところや、合理的に見れば無意味と思われるところに「敢えて意味を見出す」、それこそが人間らしさであり、尊いことだな、と思うのです。年の変わり目にそれまでの自分を振り返ったり、これからの自分について新たな気持ちで目標を定めたり。こういう「意味の見出し方」や心の姿勢のことを、広く「宗教性」と呼ぶのではないでしょうか。

昨年は「不要不急」が敬遠されました。年が明けても、それは緩和されるどころか一層強まらざるを得ない様相となりつつあります。けれども人は、合理的だったり、客観的に見て価値が測られるものだけで生きているわけではありません。先述の「宗教性」に代表されるように、「ドライに見れば無意味とさえ思われるところに豊かな意味を感じること」こそが「人間味」でもあるわけです。「不要不急」という言葉に包含されるような、「他の人から見たらどうでもいいかもしれないけれど、私にとっては大事なもの」が、私らしい私なりの幸せな生き方を支えてくれるのでしょう。

今年私は40歳という年齢を迎えます。これもまた他人様から見たら、「あら、そう」という程度のことかもしれません。でも私自身にとっては「ついに一区切りつくぞ!」という思いが強くあります。30歳になる時には感じなかった重みを、この度はじわじわと感じているのです。私は十代の頃から「年をとること」に対する憧れがあったので、「40歳」は「ついに目指していたゾーンに入る」というイメージなのかもしれません。

ところがいざ目前に40歳を控えてみると、思い描いていた40歳になれそうかどうか、甚だ心もとなく思えてなりません。どうしよう! あと半年も無いのに!

聖書の中に「新しい」という言葉は何度も出てきます。ここで「新しい」というのは、単に「古いの反対」、「やがてまた古びていくもの」ではありません。全く質的に新しくなる、革新、新生の意味を持つ言葉です。そしてそれは、神さまとの関わりの中でこそ「全く新しくされる」ものです。

私にとっての40歳は、そんな「新生」のイメージ。神さまによって新たに生まれさせられて、神さまとの繋がりを確信しているからこそ、自由に自分らしく生きられる。先の聖書の言葉に重ねれば、「新しい天に繋がって、新しい地を歩む」、そんな自分になりたいです。

「自虐クドウ」はいつも自分の選択や自分の振る舞いを「それでいいの?」「そんなのじゃ人に笑われるよ」などとびくびく点検してばかりいますが、「新生クドウ」は胸を張って爽やかに朗らかに「神さまがついてるから私は私で大丈夫!」と笑っていたい。そんな私を見た人が、「神さまと共に生きている人はしなやかで強くて素敵だな、自分も神さまについて知りたいな」と思ってくれたりして。生き方そのものが宣教になるなんて、すごいことですよね。自虐クドウが早速耳元で「そんなん無理やろ……」とつぶやいていますが、夢はでっかく、ですよね(笑)

皆さんが「新しく」されるなら、どんな自分になりたいですか。皆さんが「新しく」されるなら、それは「何によって」もたらされると思いますか。「神さまなんて知らないよ」と仰る方も、もしかしたら聖書の言葉との出会いが、何かこれまでにない「新しいもの」をもたらしてくれるかもしれません。

今年もぼちぼちと、聖書の言葉と気軽に出会っていただけるような投稿を積み重ねていけたらと思っております。時々こちらを覗いてもらえると嬉しいです。

今年もよろしくお願いいたします。皆さんの新しい一年が、神さまの祝福に満ちたものとなりますように。

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