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「知らんけど」と、そっと付け足す謙遜を。

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

新約聖書 マタイによる福音書 21章28-31節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私は歌舞伎が好きなのですが、歌舞伎役者の上村吉太朗さんという方が、先日こんなことをつぶやいておられました。

上村吉太朗さんは大阪府岸和田市のご出身とのことでばりばりの大阪人です。「岸和田といえばだんじり」みたいな勇壮なイメージとは一転、舞台ではかわいらしい女方を演じられることが多いのですが。

私も生粋の大阪人(腰かけ京都民期間が人生の5分の1くらいあるけど)なので、この「知らんけど」に対する感覚、「分かるわぁ~」とうなずきながら読ませていただきました。

「○○やと思うで~、知らんけど」「○○なんちゃうか、知らんけど」

吉太朗さんのおっしゃる通り、投げやりなわけではなくて、「確証は無いんやけどな」というある種の「謙遜」のニュアンスで使っている気がします。

歯切れの良い文章や、強い説得力を持つ語り口に、この「知らんけど」は不向きです。でも、だからこそ、「知らんけど」を末尾につける感性を忘れたくないな。先日若くして急逝された女子プロレスラーの方の訃報を聞いて、そんなことを思ったのでした。

私はあまりテレビを見ないので、その方が出演されていた番組も見たことがないのですが、番組出演に関するSNS上の中傷が遠因であるような指摘を数多く目にします。出演されていた様子に対して、市井の人々がずいぶんと厳しく批判、あるいはそれを著しく超えた誹謗中傷をされたということなのでしょうか。

「批判」は、学問の場をはじめ、物事を深く鋭く考察する上で不可欠なものです。一方、「批判」と「誹謗」「中傷」の境目が分からず、批判のつもりが誹謗になっていたり、誹謗になることを恐れて批判を避け、表面的な共感で済ませてしまったりすることも多いような気がします。これは私が生徒さんたちと学ぶ中でも感じていることです。「ハイ、論破~」というような傲慢な嗜虐性は議論の広がりを阻んでしまいますし、「そうだよね~、私もそう思う~」だけでは思考の深まりを望めません。教育に携わる者として、「正しく批判し合うこと」「批判的思考がもたらす発見の喜び」などについて、どう伝え、どう共に考えていくか、しみじみ思い巡らしています。

そこで分かりやすく、思わずふっと微笑むような柔らかさで「思慮深さ」を訓練できるのが、先の「知らんけど」の一言なのでは、と思いました。

「そんなのはおかしい!」「素人は黙っててください」と頭ごなしに誰かの意見を切り捨てると、自分の思考も広がらないし、自分の見方の偏りにも気付けません。でも、「ほんまはあんたもよう分かってへんのんちゃうん、知らんけど(笑)」と「断言を『逃がす』」。そうすることで、「いや、私もよう分かってへんねんけどな」「ほんなら、もうちょっと一緒に考えていこか」と、繋がり合っていくための「のりしろ」が残せるように思うのです。

冒頭の聖句は、「口だけでなく、本当に神さまに従う行いが伴っていますか」とイエスさまが問われているたとえ話ですが、ちょっと視点を変えて読んでみます。このたとえにある状況に私たちが居合わせたとしたら、私たちは誰を褒め、誰を蔑むのでしょうか。「弟さんは立派だわ、なんて気持ちの良い返事かしら」「それにひきかえ、何なのあのお兄さん。あれじゃあお父様も大変ね」などと、「その後」をきちんと見届けもせずに、兄を誹り、弟を讃えはしないでしょうか。

「私には見えていない部分がある、私が知り得ていない部分がある。すべてをご存じなのは、神さまだけ」。そんな謙遜に繋がるのが、神さまへの信頼、信仰なのだと思います。そしてその謙遜が、隣の人を断罪せず、互いの欠けを許し合いつつ共に前進する「愛の実践」を生むのでしょう。

「弟さんの返事はええねぇ、その後どうしはったんかは、私知らんけど」「お兄さんちょっと感じ悪かったねぇ、ほんまのところどう思てはるんかは、知らんけど」

強そう、賢そうには見えないかもしれないけれど、誰かを傷付けたり誰かと分断されたりしない語り口を、大事にしていきたいな、と思います。

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