見出し画像

離れてみて分かる恵み

何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
新約聖書 ルカによる福音書15章13-19節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私は割と外出が好きです。休みの日もできるだけお出掛けの予定を入れたくなるし、仕事の出張とかで電車に乗って出掛けるのもあまり苦ではないタイプ。宿泊出張でたまに泊まるビジネスホテルなんかも大好き(笑) 「今日はここが私の部屋!」みたいな気分で高揚します。

ただ、行くまでは、そして行った先で街を歩いているうちは、「わー、こんな所なのか」「ここが生活の場だって人もいっぱいおるんやな」「世界は広いな」などとしょうもないことを考えながらうきうきしているのですが、夜になってホテルで一人ベッドに横になっていると、無性に我が家が思い出されたりもします。
日頃は兄弟げんかの声やYouTubeのゲーム実況音声などに「やかましいなぁ」なんて思っているのですが、家から離れて静かに一人で過ごす夜には、その騒がしさが妙に懐かしいような、愛おしいような気持ちが湧き出てくるのです。
まあ帰宅するなりあっという間に、「やっぱりやかましいなぁ」って思うんですけどね。

ともあれ、こんな風に「離れてみて、失ってみて初めて気付く良さ」というものってありますよね。

冒頭の聖書の箇所は、とても有名な「放蕩息子のたとえ」の物語です。
聖書には母よりも父のモチーフが使われることが多いですが、いずれにせよどちらも「私たちを育み守るもの」の象徴として描かれる点では共通していると考えて良いでしょう。
この物語では、ある父親の元にいた二人の息子のうち、弟の方が、独り立ちと言いますか、家出と言いますか、父の家から離れるわけです。それも、ただ家を出るだけではなくて、今の言葉で言うところの「生前分与」、父の財産のうち自分の相続分をさっさともらうだけもらって出て行ってしまうんですね。
ところが、彼はそれを好き放題に使い尽くして、瞬く間にすっからかんになってしまう。悪いことは重なるもので、ちょうどその折にひどい飢饉が起こって、彼は食べるものにも困ってしまう。
聖書の中では豚という動物は汚れた蔑むべき動物なのですが、その豚の餌さえ食べたくなる程に、彼は惨めさのどん底に落ちたわけです。

そういう、人生の行き詰まった局面に至って彼が気付いたのは、「自分を育んでくれていたあの父の家は、本当に恵まれた所だったんだ」ということでした。

気付いた彼は、この時点ではまだ父の家には帰っていません。だから、「父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余る程お案があるのに、私はここで飢え死にしそうだ」というこのセリフは、「彼の記憶の中の〈父の家〉」をもとに語っているわけです。帰ってみて、父の家にたどり着いてみて、「ああ、ここには有り余る程パンがあったのか、いい所だったんだなぁ」と気付いたわけではない。父の家から遠く離れて、自分の人生に行き詰まったその所で、「父の家」の恵みや豊かさに気付いているのです。

そこにいる時には感謝や思い入れを抱くことはないけれど、そこから離れた先で、振り返ってみて気付く恵み。童話の「青い鳥」と同じですね。

平凡な日々のただ中では、取り立てて感謝することはないし、きっとそれはそれで構わないんだと思います。
でも、「あー、今いる場所ってつまんないな」と倦む時にふと、「でも、こんな毎日ですらも、離れてみたらきっと何かしら『やっぱり良かったな』って懐かしく思い返すのかも」と考えてみるのも良いかもしれません。
そういう「俯瞰の眼差し」を持つことで、「変わり映えしない日常」の閉塞感に小さな風穴が開いて、ほんのり感謝の気持ちが湧いてくる。それがまた、「変わり映えしない日常」を歩み続ける原動力になる。そういうこともあるのではないでしょうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?