見出し画像

「たまに教会に行く」というスタイルについて。

ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章5-6節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私は無精者で、肌の手入れや化粧についてさほど熱心な方ではありません。
かつては「春の新色」なんて言われると「どれ、一つくらい試してみようか?」と思うこともあったのですが、今はまーったく関心がありません。基礎化粧品も、美白がどうとかシワに効くとか「へー、すごいなぁ」と思わないこともないのですが、それを購入して毎日丁寧に塗り込んでパックして……なんていうことが億劫で、ほとんどしません。旅行土産でもらうパックなんかを、「せっかくだから」とたまに使ってみる程度。

でもこんな私でも、薬局だとか化粧品店なんかで最低限の買い物をする際には、いろんな新製品のサンプルをもらっちゃうんですね。もらった物は捨てるのももったいないので、これまた「せっかくだから」と時々使ってみるわけです。

この数日、いつの間にか溜まっていたそれらのサンプルの美容液を、「溜まったままなのも煩わしいし(くださった方にはごめんなさい)、適当に使っとくか~」と思って、手当たり次第塗っていました。何に効くのかも分からない。とりあえず化粧水の後に塗っているけど、そのタイミングで使うのが正しいのかも分からない。でもまあ、とりあえず。

そんな数日を経て、ふと、「あれ? なんかお肌がちょっともちもちして良い感じなのでは?」と気付きました。使い方は分かんないけど、なんかやっぱり効いてるのかも。どれが効いたのかさえ分かんないけど。
ですので、「どれがどう効いたか」というよりも、「普段全然入ってこない美容成分が入ってきた」というところが一番「効果あり」だったんだろうなぁ、と思います。

この「普段無いものが与えられる」「普段とは違うものが時々入ってくる」というのは、思いのほか効果的なのではないでしょうか。

旅行先で「いつもと違うシャンプー」を使うと、妙に髪の毛がさらさらになったりすることがあります。これも、「いつもとは違うものが入ってきたから」なのだと勝手に理解しています。
外食が嬉しいのは、「いつものお家のご飯もおいしいけど、ちょっと目先の変わったものが食べられるウキウキ感」だったりします。
普段と違う服装をすると背筋が伸びた気がしたり、これまでと違う髪型にするとすごく気分が高揚したり。
「いつもと違う」は、思いがけない大きな力になることがある。
そんなことを思いました。

さて、教会の話。

「クリスチャンです」と言うと、「毎週教会に行くなんて、すごい。私にはできない」と言われることがあります。まあ実際には仕事があったり用事があったり体調不良があったり、文字通り「毎週」でない人も多くいるんですが(それで全然構わないし、私もそうなんですが)、何となく「クリスチャン=真面目に毎週教会に行く人」というイメージって、強いんでしょうね。

毎週行ければもちろん素晴らしいし、週ごとに礼拝で自分を見詰め直し、神さまと真摯に向き合う、そこに得難い恵みがあることは私も確信しています。
ただ一方で、多くの人が「教会は、ちゃんと毎週通えるような『すごい人』だけが行く特別な場所であって、自分とは関係ない」と思ってしまっているのだとしたら、それってもったいないな、とも思います。

ずいぶん卑近な例ではありますが、先ほどの私にとっての美容液や、いつもと違うシャンプーのように、「たまに教会に行く」ということが「すごく効く」というケースもあるのではないでしょうか。
そういう形で「教会っていいな、たまに礼拝行くのっていいな」と思って神さまと出会う人が増えるのならば、それはそれで喜ばしいことなのではないでしょうか。

私は自分の「聖書科」としての取り組みの中で、中学生の皆さんに「学期に1回はキリスト教会の礼拝に参加して、レポートしましょう」ということを促しています。きっかけはレポートであったとしても、少なくとも年3回、教会の敷居をまたぐ機会があるいうことは、生徒さん自身にとって大きな恵みになると信じています。(もちろん、信仰上の理由等で難しい方には強制はしませんが。)
面白いことに……というとちょっと語弊があるかもしれないんですが、年に3回だけ行く教会のことを、生徒さんは「私が行ってる教会」って呼ぶんですよね。年に52回以上行く人からすると、きっとこの生徒さんたちは「お客さん(よその人)」なんだろうけれども、当の生徒さんはその教会を「自分と繋がりのある場所」と捉えていたりする。これってすごく嬉しいことだと思うんですよね、私は。

熱心に真面目に毎週礼拝に通うことで、信仰の血肉や足腰みたいなものがきちんと作られるという面は絶対にあると思います。
でも、月に1回とか、年に数回とかでもいいから、「たまに教会に行く」という形が、教会に繋がるひとつのあり方としてもう少し許容されていってもいいのかなぁ、と思います。
その人にとって「たまに塗ってみる美容液」みたいに、心や魂を豊かに潤すものとして教会が受け入れられたなら、いざ本当に渇きを覚えた時にも、きっと良い形で繋がれるだろうと思うのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?