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「助けて」とお互いに言い合えたら。

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 4章7-9節 (新共同訳)

こんにちは。くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校の聖書科教員をしています。牧師です。

先日読んだ本がたいそう面白かったのでご紹介します。

朱野帰子氏の本は、『駅物語』を昨年初めて読みました。「お仕事小説」と呼ばれるようなジャンルの書き手なのでしょうか。話題になっていたドラマ「わたし、定時で帰ります。」もこの方の作品が原作なのですね。残念ながらドラマは見ていないのですが。

『対岸の家事』、「専業主婦」が主人公ですが、ほとんどワンオペのワーキングマザー、計画的に育休を取ったイクメンパパをはじめ、「キャリアウーマン」、寡婦/寡夫、「嫁」業を頑張る若妻、シングルマザーなどなど、いろんな立場の人を取り上げながら、現代における家事、育児、介護などの問題をかなり丁寧に描いています。

「無償化されたケア労働」を巡る、ある種の「社会派小説」なのでしょうけれど、人物の心情なども無理なく細やかに表現されていて、「取ってつけた感」が無いのがとても上手いなぁと思います。「対岸の家事」というタイトルも良い伏線になっていて、紫陽花、七夕などのモチーフがきれいに主題と絡んでいったのも気持ち良かったです。

特に家事、育児、そしてそれらと仕事との両立、といったテーマで悩んだり考えたりしている人には、一読をお薦めします。というわけで、ネタバレは避けて、内容のお話はここまで。

ただこの作品を読んでいて、「困ったら『困った』と、無理だと思ったら『助けて』と、言いやすい世の中だといいな」ということを思いました。

私自身、産休育休を取得した経験があります。育休中は「仕事を休んでいる」ということに対する罪悪感がありましたし、育休復帰後はもっとひどくて、「仕事も家庭も両方満足にできていない、両方とも失格だ」と常に自分を責めてしまっていました。

念のため断っておくと、オットをはじめ、私の周囲の人たちは非常に協力的で、理解のある人も多かったと思います。でも……いえ、だからこそ、でしょうか。「こんなに支えてもらっているのに上手くやれない私はダメだ」と一層自分を追い詰めていました。

「仕事と子育て、一人の人間が両方に関わっているんだから、『200点満点』なんて目指さなくていい。『どっちも50点』だったとしても、十分あなたは『100点満点』なんだよ」と励まされたことがありました。ところが私はそれを聞いて、「ああ、やっぱり私は『50点』だと思われているんだ……」と、後ろ向きに捉えるような状態でした。家事も育児も、何をもって「100点」とするのかなんて分からないんですけどね。でもあの時はそう思えませんでした。

「もう無理だ」とばかり思っているのに、「助けて」とは言えなかった私。私はすでにたくさん助けてもらっているのに、これ以上人に「迷惑」はかけられない……、そう思っていたんですね。実家が遠方でもしっかりやっている人はいるし、うちの夫より非協力的なパートナーとの間でも立派に子育てしている人もいる。それなのに私は、こんなに人の世話になっていながら、どうして「これくらいのこと」も「ちゃんと」できないんだろう。毎日そんなことばかり考えて、泣き叫びたいような気持ちでした。

「助けて」「もう無理」「お願い」を言いやすい環境、「それを言っても大丈夫」と思える心境。それを作るには、日頃から「互いの弱さを見せ合う、受け入れ合う」ということをカジュアルにできていたらいいのかもしれませんね。

「家事が、育児が上手くできない」と悩んでも、「これくらいちゃんとできなきゃ!」と自分を追い込むのではなくて、「ごめん、やっぱり私これできないわ、苦手だわ。誰か助けて~!」と素直に言えたら。虐待だとか少子化だとかを「根絶すべき悪」としてただ正論を語るのではなくて、「誰もが追い詰められない社会」を、半径3mくらいの身近な所から作り出していくことが、結局は「誰にとっても呼吸しやすい社会」に繋がるのではないでしょうか。

冒頭の聖句は、イエスがサマリアの女性に水を求めて声をかける場面です。「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」とあるので、よほどへとへとになって座り込んでいたのかもしれません。そんな中、水を汲みに近付いてきたサマリアの女性に、「水を飲ませてください」と頼むのです。

サマリアの女性が昼日中に水汲みにきたことにもいろいろな背景があるのですが、それより何より、ユダヤ人であるイエスが、敵対していた「サマリア人」の「女性」に「助けを求めた」ということが非常に印象的です。

当時の感覚からいえば二重にも三重にも「格下」である立場の人に対して、イエスは「水を飲ませて欲しい」と臆面もなく頼みます。

救い主なのに! 自分で自分の渇きを癒すこともできずにへたり込んでいるなんて! 情けない……! いいえ、「だから」いいんです。

救い主イエスは「助けてもらう生き方」を率先して示してくださっているのです。そうして生まれた関係性の中で、「水を頼んだイエス」は、やがて象徴的な意味で「いのちの水を与える救い主」となっていきます。

「ギブアンドテイク」なんて世知辛い意味合いではなく、「助けて」「お互い様」と思いやすい、人と人との温かな繋がりを、このイエスさまに倣って築いていけたらと願います。

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