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信念/信仰に生きる ~チェ・ギュソク『沸点』を読んで~

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 16章33節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

「2026年に、韓国に留学(在外研究)に行く」と宣言しています。なーんの約束も確証も無いけれど、去年から勝手にそう言い出していて、今や「くどちん、韓国行くのって何年だったっけ?」と聞かれるほどになりました(笑) やりたいことを「やりたい!」と言いまくって、外堀から埋める形で実現にこぎつけようという魂胆。

昔から韓国という国に強い関心を持っていました。

最初の記憶は小学生の時。いわゆる在日の友だちも何人もいて、当時はよく分かっていなかったけれど、小学校でも「韓国/朝鮮文化について知る」という機会がしばしば用意されていました。「親子で調理実習」みたいな行事でチヂミとトックスープを食べておいしさに大感激したり。時間割内の「クラブ活動」(小学校ってそういうのあるよね?)に「ハングルクラブ」があったり(私は入りたかったのに人気があり過ぎて抽選に外れた)。そのハングルクラブ主催だったのかもしれないけれど、チマチョゴリを着たり、「アンニョンハセヨ」といった簡単な韓国語挨拶を習ったりするイベントがあったり。
何にせよ私にとって「韓国」は憧れの対象になりました。そういえば人生最初の「オリンピック」の記憶も、ソウルオリンピックです。あのトラのキャラクターの下敷き、持ってたなぁ。

大学生時代には、ピースボートのショートクルーズで釜山に寄港したり、学部の先生方がシンポジウムでソウルへ行かれるのについて行かせてもらったり。私は覚えていないのですが、この時の晩餐会か何かで私は韓国語で挨拶をしたらしい。一緒に行っていた友人が「あの時のクドウちゃんはすごいと思った」と10年以上経った後で褒めてくれました。この時の訪韓は私にとってすごく印象的で、「韓国に留学しようかなぁ」と真剣に考えたほどでした。結局、自信が無くて踏み出すには至らなかったけれど。

仕事をし始めて3年目くらいの頃、ある大先輩の先生が「毎年年始に今年の目標を3つ定める」ということを継続しておられると知りました。それにあやかって私はその時、「私は今年、前々から興味のあった韓国語に挑戦します!」と新年会で言った記憶があります。……でもハングル練習帳を買っただけで終わりました。

その私が2000年末、子どもたちが繰り返し見ていたYouTubeの「Dynamite」のMVでBTSを知り、持ち前のオタク心で「名前覚えたい」「キャラクターを見分けたい」と思ったが最後、ずぶずぶと沼にハマったわけですが。
年末に実家に帰省しようとしてふと、「今こそ私、韓国語やるべきなんじゃ?」と思い付いたんですね。で、何年も前に買ったままになっていたハングル練習帳を探して引っ張り出して来て、実家に持参。「正月の実家」というダラダラし放題の暇な時間に、英語でいうアルファベットに当たるような「아,이,우,에,어…」みたいなことからやり始めた2021年の年の初め。

2021年3月、敬愛する他校の聖書科の先生が退職に当たり、「いろいろ大変だったけど、学校にあるシステムは片っ端から利用させてもらって、いろんなことさせてもらったから満足」みたいなことを仰っていて、「そうか、うちの職場にも在外研究制度があるんだっけ」と気付きました。

まだ私がその制度を利用できるのかどうかは分からないけれど、今は「ダメならダメで自力で行けばいいやん」という気持ちです。「40過ぎて留学なんて、何のために?」とツッコむ自分も確かにいるのですが、「誰かに評価される分かりやすい結果が出せなくてもいいやん、『行く』『行った』という事実が私の人生に残るやん」と、いい意味で開き直ることもできるようになってきました。年取るって、いいよね。

さてでは単なる語学留学ではなく在外研究として行くとしたら、一体何について研究したいの? というのが最近の私の関心事。人から聞かれても、「いやー、興味あることがあり過ぎて、まだ絞れなくて……」とばかり答えていたのですが。

先日、この『沸点』(チェ・ギュソク著、加藤 直樹訳、クォン・ヨンソク 監修)を読んで、「これだ」と思いました。

韓国の80年代の民主化闘争、特に6月民主抗争を中心に描いた漫画作品です。
光州事件を筆頭に、私はこの韓国の民主化闘争の歴史にすごく(表現は不適切かもしれないけれど)心惹かれるものを感じていました。歴史を概観する本を読んでみたり、その時代を取り上げた映画を観てみたり。自分なりにちまちま学び続けてきたものが、この漫画を読んでぐっと鮮やかに像を結んだ気がしました。

「自由を勝ち取るために、命懸けで闘う人たちの根っこにあるものって何なんだろう?」
このような問いが自分にとっては熱を持って腹の底で滾っていました。
「どうして諦めずに闘い続けられたんだろう?」
「目指すものに対して諦めないでいられるための力ってどこから湧いてくるんだろう?」

大学時代の卒業論文は遠藤周作作品の研究がテーマだった私。
思えばあの時も同じことを考えていたんです。その時は、「キリシタン」に対して。
「信仰を貫くために、命懸けで闘う人たちの根っこにあるものって何なんだろう?」
「どうして諦めずに信じ続けられたんだろう?」
「信仰に対して挫けないでいられるための力ってどこから湧いてくるんだろう?」

そして、今目の前で出会う生徒さんたちに対して思ってしまうことでもあるのです。
「どうして自分の力で何かが切り開ける、という自信が持てないのだろう?」
「自分たちが社会を作るんだという自尊心がなぜ育まれないのだろう?」
「やけに諦めが良く、『コスパ』の良い生き方を選びたがる感じがするのは、なぜだろう?」
もちろん、そんな人ばかりではないのですが、総じて「どうせ世の中は変わらないけれど」という枕詞を言いたがる傾向がある――そんな風に感じていて、「自分たちはできる」という気持ちを育めない教育って何なんだろう、と自戒、自責の念を持ち続けていたのでした。

「できる」「きっと叶う」と信じる力が、人生を、社会を、世界を、きっとより良い方向へ押し進めていくのだと思うのです。
生徒さんたちにも、そんな「核」になるものを持って欲しいと願っているのです。

だから私がかの地で学びたいのは、この民主化の歴史についてだな、と、得心がいったのでした。

最初期のキリスト教徒たち、つまりイエスの弟子たちも、迫害の中で諦めることなく宣教を続けた人たちでした。
命懸けで、「これこそが真実だ」と思うことを貫く姿は、先に述べたような歴史と重なるものがあります。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
このイエスさまの言葉を信じることで、激しい苦難の中にも希望を失わず前進を続ける力が湧いてきたのでしょうか。

引き続き、このようなことを考えつつ、留学という夢が夢に終わらぬよう、現実的な準備も整えていけたらいいなぁと思います。
とりあえず、11月に韓国語検定3級受検予定なので、頑張ります!


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