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のびのびと、眼差しを遠くへ

主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
旧約聖書 創世記 13章14-17節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

新年度が始まってひと月あまり。ゴールデンウイークも終わってしまって、何というか、ここからしばらく「節目の無い期間」に入る感じがします。

学校という所は年度で大きく区切りの付く所なので、他のお仕事をなさっている方よりはそういう「節目節目」みたいなのを感じやすいような気がしています。
あ、でもどうなんだろう。お仕事によっては四半期ごとでめちゃくちゃリセットされたりするところもあるのかしら。あとは人事異動は私立学校はあまり無いので、そういう意味では我々の方が「節目」の無い職場なのかな。

ともあれ、この「節目」という感覚って大事だな、と感じています。成長も前進も深化も、起点があってそれと比較することで実感できるもの。「さて、あれからどう変わったかな」と振り返るタイミングが無いと、何やらのんべんだらり、マンネリ化してしまう部分というのは避けられないかもしれないなぁ、なんて、自分のこれまでを振り返って思うからです。

学生の頃はしょっちゅうテストだの検定だのがあって、数字で成績が出て合格不合格がきちんと示されたので、良くも悪くも「自分がやってきたことへの手応え」は与えられました。背が伸びたり、できることが増えたり、行動範囲が広がったり、分かりやすく「成長」を感じられた。

でも大人になって、社会に出てみると、あの頃のように誰かが明確に「あなたはこれだけ成長したよ(またはしていないよ)」と示してくれることが少なくなって、「私、ほんまにこれでええんかしら」と不安になる時があります。
一方、「成績」に追われるお仕事もあるということは分かっていて、いわゆる営業職経験のある友人なんかから話を聞くと、「大人になって一層シビアに成績を突き付けられることの大変さ」も感じるから、数字で示されることもそうでないことも、どちらにせよそれぞれの大変さがあるということも分かるのですが。

ともあれ、私の場合は「自分がどうなりたいか、どんな風な理想を目指して、どんな変化を重ねていきたいか」と、時々でもきちんと自問する必要があるタイプだと思っています。

そういう「目標」を考える時に、手近なところで計画するのもいいけれど、ちょっとでっかく、目標というよりは「夢」と呼ぶべきサイズ感で、未来を思い描くのも大事な気がします。

昔、「金魚は水槽のサイズによって大きくなる」と聞いたことがあります。ほんまかどうか知らんけど。(出たよ関西人話法)
サイズの小さい水槽で飼っていればさほど大きくならないけれど、大きい水槽で飼うとのびのび育って大きくなるのだという話です。

金魚が本当にそうなのかどうかは置いておいて、夢や目標にはそういう「成長の限界」を左右する側面がありそうです。
「人は、自分がイメージできる範囲のものにしかなれない」のだとすると、そのイメージが大きければ大きいほど、自分自身がもっと遠くまで歩いて行けるのだと思います。

冒頭に挙げた聖句は、後に「アブラハム」と呼ばれるようになる人が、まだ「アブラム」という名前で呼ばれていた頃のお話。
東西南北、見渡す限り、見える限りの土地をあなたと子孫に与えよう……と言われたアブラム。
彼の見る世界が小さければ、彼の生きる世界もまた小さいものに留まります。でも彼がずっと遠くまで見渡そうと背伸びする人であれば、彼はきっとその遠い目標に向かってはるばる歩いて行くことになるのでしょう。

もうすぐ42歳になる私ですが、気が付けば目の前の仕事にあっぷあっぷして、視界が狭くなっていくことを感じます。東西南北を見渡すどころか、東だけ、それも東向きの足元数メートルだけ……しか見えなくなってしまうことがしばしばです。

でも時々は、遠く遠く眼差しを広げて、「私が見渡す限りの世界に、私は歩いて行けるんだ!」と首を伸ばしてはるばると見晴らしたいものだなぁと思います。

ちょっとマンネリ化して行き詰まりと息詰まりを感じそうになるこんな時期だからこそ、アブラムが感じた風を私も胸いっぱい吸い込んで、視線を遠くへやることで、遠くまで駆け出して行けるような新たな力を得たいなぁと思ったのでした。


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