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名を奪われた人の、名を呼ぼう。

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

新約聖書 ルカによる福音書 19章1-7節 (新共同訳)

こんにちは。くどちんです。牧師です。キリスト教学校で聖書科教員をしています。

またまたすごい本を読んでしまいましたぞ。

こちらは積ん読本ではなく、「ほしいものリスト」に入れっぱなしだった本。映画化されたんですね。同僚が、「映画見ましたか?! ぜひ見てください!」と声をかけてくれたので、まずは本から……と早速買って読み始めたら……怖くて痛くてすぐ読み終えてしまいました。

全体を通して「キム・ジヨン」の名の通り(「キム・ジヨン」は1982年生まれの韓国女性に最も多かった名前なのだそうです)、「誰もが身に覚えのある」話。そしてその「誰もが身に覚えがある」というのが一番怖いところなのですが、個人的には妊娠中のくだりが一番えぐられました……。日本と比べてとうに女性大統領まで輩出している国でも、やはり今なおジェンダーギャップや性差別に悩む人は多いのだなぁ。

伊東順子氏の解説がまた鋭くて素晴らしかったです。特に一番最後に明かされた、「実は男性の登場人物はほぼ名前が記されていない」という指摘。夢中になって本編を読んでいて、そのことに全く気付いていなかった私は、「ほんまやーーー!!!」と叫び出しそうになりました。

「名」というものは、人を他者と区別するラベリングの機能を持っています。けれども「名」というものはもっと深遠な本質をも備えていますよね。「名は体を表す」「名に傷をつける」などの慣用表現は、「名」が単なるラベルではなく「存在そのもの」「人格」に関わることを示しています。

名というものが深く人格に関わるからこそ、人は名付けには慎重になります。また特定の間柄だけで呼び交わされる愛称が、親しみを深めてくれることも経験的に知っています。

しかしこれを逆手に取れば、侮辱的なあだ名を付けることで相手を人格的に傷付けることもできます。「おい」「お前」「何番の人」などという呼び方で、「私はあなたを尊重しない」という姿勢を伝えることもできてしまいます。

名を呼ぶことで私たちは相手の存在を認め、深く受け入れることになる。そう考えると、名を呼ぶということは、人と人との関係性のはじめの一歩であり、完成形であり、「祝福」であると言えそうです。

冒頭に挙げたのは、ザアカイという徴税人の頭がイエスと出会って救われたという物語です。徴税人というのは、当時のイスラエルにおいて嫌われる職業の一つでした。支配国ローマの手先のようにして同胞から税金を取り立てる彼らは、宗教的にも汚れた存在とされました。ザアカイはそんな徴税人の「頭」、リーダーであったというのですから……そりゃあ、好かれていませんよね。

そんなザアカイのいる街を、イエスが通りかかります。ザアカイはイエスの姿を一目見ようと、木に登りました。イエスの名を呼ぶことはできない。でも切実にイエスを求める。そんな姿です。そのザアカイに対しイエスは「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけるのです。

イエスから名を呼ばれたザアカイはイエスと出会い、これまでの生き方を悔い改め、神に従って生きる新たな人生へと踏み出していきます。

「ザアカイ」という名前は、「清い人」「正しい人」という意味です。汚れた罪人として人々から疎まれた徴税人の頭が「ザアカイ」とは、たいそう皮肉なことです。誰もザアカイのことを「清い人」とは捉えていなかったでしょうから。実際、イエスがザアカイの家に赴く時にも人々は「どうしてイエスはあの罪深い男の家に宿をとるのか」とつぶやいています。「ザアカイなんかの家に」ではないのです。「罪深い男の家に」。

でもイエスはこの、誰からも親しく呼び掛けてもらうことのなかったザアカイの名を、敢えて呼びました。

名を呼ぶことが祝福である一方、名を呼ばない、名を敢えて認識しようとしないということは、呪いにも似た相手への侮りです。

テニスの大坂なおみ選手が、全米オープンで着けていたマスクを思い出します。そこには、人種差別や警察の暴力の犠牲となった7人の人物の名前が記されていました。「犠牲者の名前だけを記す」という静かな抗議のあり方は、心に響くものがありました。

無言のうちに、犠牲者たちの名前を呼んだ大坂選手。ともすれば、「黒人」とひとくくりにされてしまう彼らの、一人ひとりの名前を敢えて刻んだその姿には、彼らの存在を「一人の死」として重く受け留め、その無念を蔑ろにはしないという決意が見えました。

人種に留まらず、差別の問題の根幹にはこの「誰かのことを名前のある一人の人間として見ない」という傲慢な姿勢があるのではないでしょうか。

ザアカイはイエスに呼び掛けられたことで、その生き方が大きく転換しました。ザアカイという名に沿った、神に従う清い人を志す、そんな生き方へと踏み出したのです。呼ばれずにいた誰かの名を呼ぶ、ということは、その人にとって大きな、生きる力となり得ることなのかもしれません。

私たちも、互いの名を、そしてこの世において小さくされている人の名を、大切に呼ぶ者でありたいと願います。まずは、気にかかりながらもご無沙汰してしまっていた人に、連絡を取ってみようかな。

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