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後からしみじみ

イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 10章6節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科教員をしています。牧師です。

家で洗い物をしている時、腕まくりをしようとして、自分が袖口を内側へ折り込んでいることに気付きました。こうすると、まくり上げた袖がずり落ちてこないのです。これ、実は昔「伊東家の食卓」という番組で見た「裏ワザ」なのです。そのことを思い出しました。

印象が強烈だったので記憶に残った……というわけではないけれど、頭や心に残り続けている記憶が、時折こうやってふわっと意識に上ってくることがあります。よく考えたら私、この腕まくり技に結構助けられてきているんですよね。便利なのです。皆さんもお試しあれ。

小学校時代、音楽の授業で見た教育番組の中の劇中歌を、これまた洗い物をしながら口ずさんでいることもあります。改めて歌詞について思い巡らしてみると、何となく励まされる気がするので歌っているようです。他にも、中高時代に先生が授業時の雑談とか、大学時代の指導教授の口癖とか。「これが私の人生を支えている!」とまでは言えませんが、「ほとんど意識したことも無かったけれど、よく考えたら結構影響を受けているのかも」と思うようなものがぽつぽつ思い当たります。

その時には大したこととも思っていなかったけれど、後々「あれは自分にとって意味のある話/言葉だったんだなぁ」と気付く。皆さんにもそういうものはありますか?

聖書の中では、意外としょっちゅうそういう話が出てきます。イエスさまが語られたその瞬間「そうかー! イエスさま、分かりました!」となるのが理想的な気がしないでもないけれど、「彼らはその時は分からなかったのであ~る」、みたいな記述があちこち散見されます。イエスさまの周りにいた人たちの勘が鈍かったのか、はたまたイエスさまの伝え方が回りくどかったり素朴過ぎたりしたのか。

でもこういう、後から答え合わせのようにして、「あー、そういうことか」「あれってすごい大事な話だったんだなぁ」としみじみ気付く、考えさせられる感じが、私は好きです。

恩師である牧師がかつて、「説教(礼拝の中で牧師が語る聖書に基づくお話)は、強烈な記憶に残らなくてもいい。毎日の晩ご飯を覚えていないのと同じ」と仰っていました。

記念日に豪華なレストランで食べた高級なディナーのように忘れ難い食事も、人生の彩りとしてはアリかもしれません。でも私たちの人生を支えているのは、「みそ汁とご飯、あとはせいぜい卵焼き」といったような、その時にはありがたみがよく分からなかった、さしたる派手さの無い、でも味わい深い食事なのではないでしょうか。

だとすると、聞いたその場で「がーーーん!!」と頭をぶん殴られるような衝撃を与えるお話ではなく、その時は「ん? 分かったような分からんような」「ふーん、そんなもんか」としか思わなかったのに後からしみじみ効いてくるタイプのお話の方が、人生にもじっくり効くのかもしれません。

学校で生徒さんたちと接する時にも、そういうことを思う時があります。仲良くノリを合わせて、「その時一緒にいて楽しい先生」になるよりも、その時は「つまんねぇな」と思われてもいいから、後々「あの人の言ったことが、今なら分かる」と思い出してもらえるような、そんな関わりができたらなぁ、と。

まあ、「その時」もつまらなくて、後になっても「思い出されもしないつまらなさ」のままだったら……困るんですが……。うん、滋味深い言葉が語れるように、精進あるのみですね。

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