年をとっても駆けて行きたい ー「マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~」を見てー

そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

新約聖書 マルコによる福音書 6章32-34節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

韓国語の勉強をちょうど一年続けて来て、今年はリスニングを兼ねて韓国ドラマをいっぱい見るぞ、と決意した年明け。

これまで、韓国映画はちょこちょこ見ていましたが、ドラマはほぼノータッチ。最近で言うと、「パラサイト」は観たんだけど。映画のように2時間くらいで完結してくれるならともかく、長いドラマを観続けるのが時間的にもエネルギー的にも「無理」と思っていたのかな。

そんな私が一念発起して韓ドラを見始めたのですが、いやー、面白い面白い。みんなハマるの分かるわー。そしてやっぱり映画ともバラエティとも違う、会話のリスニングという意味ではリズム感みたいなものが味わえてとても良いです。

先日観終えたのが「マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~」。歌手のIUさんがものすごい名演技。物語が進むにしたがって少しずつ変わってくる表情が上手過ぎて! そして主演のイ・ソンギュンさん。冴えない中年の悲哀を沁み込ませて煮詰めてカラカラに乾かした雑巾みたいな役どころ(言い方ひどい)なんだけど……この人「パラサイト」のパク社長だったのか!と途中で知って驚いた。役者さんってすごいなぁ。

さてドラマのネタバレはしないつもりですが、後半にかけて生きてくる伏線についての話。ドラマ未見で、気にされる方はどうぞ観終わった後にお読みいただければ幸いです(^^)

IU演じるジアンを派遣社員として採用したのは、イ・ソンギュン演じるパク・ドンフン部長。立派な履歴書の並ぶ中、学歴も低いジアンを敢えて選んだ理由は、「特技:かけっこ」と書いてあったから。

かけっこなんて、何の仕事の役に立つのか……と誰もが思うところです。でもドンフンは、我も我もと「できること」を主張して優位を競い合う候補者たちの中、「かけっこ」と書いた、そうとしか書けなかったジアンに心惹かれるものを感じ、「かけっこが得意な者は『内力』が強い」として採用するのです。ドンフンは建築物の安全評価をする仕事をしているので、建築の分野で言う「外力(外から働く力)に抵抗する力=内力」という表現をしたのですね。この辺りの描き方もとても良い……。

「かけっこ」。皆さんは最近、思い切り駆けた記憶はありますか? 私は久しくありません。授業に遅れそうになって慌てて小走りに廊下を移動することはあるけれど、息が上がるほど、腕を振り、脚を上げて、思い切り駆けた……というのは、いったいいつのことでしょうか。

思えば、幼い者、若い人は、文字通り「駆けて」います。うちの子どもたちや職場の生徒たちも、私に言わせれば「無駄に」と言いたいくらい、走り回っています。「駆ける」ということはある意味で若者の特権であり、若者であることの象徴なのですね。だからこそ、人生の後半戦に差し掛かろうとするドンフンは「特技:かけっこ」と書くジアンに、自分が失ったものを見出したのではないでしょうか。

やりがいのあった部署から外され、自分より若い者が先に昇進して、自分の出世の道はほとんど絶たれ、実の兄たちはいい年をしてまともな職にも就けず、自分と妻との仲は冷えきってしまっていて……。そんな「ザ・中年の悲哀」を体現するドンフン。

「駆ける」人は「行きたい所」のある人です。その行きたい所がどこなのか明確に分かっていてもいなくても、「ここから先のどこか」に思いを馳せられる人は、駆けて行きます。

ドラマの中ではジアンを初めとする若者たちが、ドンフンたち中年層に向かって「あなたたちが羨ましい、だってもう『終わって』いるから」というようなことを語る場面が出てきます。「ここではないどこか」へ向かって駆け続ける若者には、そんな若者なりの不安や焦りがあることが感じられます。

一方「駆け終わって」しまった、駆けることをやめてしまったドンフンたちは、そんな身動きの取れない自分自身に閉塞感を覚え、闇雲にもがいて駆け回る若者たちと自分との違いに忸怩たる痛みを抱きます。

でも、本当は大人たちだって、また駆け出すこともできるはずなのです。「自分はここまでだ」と思っているのは、他ならぬ自分自身なのです。

ドラマでは後半につれて、この「冴えないおじさんたち」が走って行く姿が印象的に挿入されるようになっていきます。若者たちとの出会いの中で、おじさんである自分たちなりの走り方を見出していくようなその流れに、私は胸が熱くなるものを覚えました。

冒頭に引用した聖句は、イエスの教えを求めて「駆けて行った」群衆たちの姿を示す部分です。イエスから何を受け取りたいか、明確に知っていた者は少なかっただろうと想像します。でも彼らの多くはイエスとの出会いの中に、「ここに私の求める『何か』がある」と感じ、切なる思いで駆け出したのではないでしょうか。

若いうちは「自分は何者であるか」ということを求め、懸命にその枠組みを作ろうとします。でも年を重ねると「私はこういう人間」と自分で決めたその枠組みの中で、それ以上の「スクラップ&ビルド」をやめてしまうようになります。

でもきっと、大人になってしまった私も、また駆けてみていいのです。行き先が分からなくても、そこで何が得られるのか分からなくても、とにかく駆け出してみる。転んだり、肉離れを起こしたりしてしまうこともあるかもしれませんが(苦笑)、駆けて行った先でイエスさまが私たちを温かい憐れみ深い眼差しで待っていてくださると信じます。

220206私のおじさん駆けっこnote用イラスト


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