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忘れないように、置く


くたびれた靴は、もう3年間オブジェのように玄関の隅に置いてある。

雨降りの午後、ほっと息をついてお茶をすすっていたわたしは、その靴を見ながら、今なら捨てることが出来るかもしれない、と思った。


その時、別れてから半年が経ったある夕方のこと、コンビニの前でコーラを飲みながら煙草を吸っていたわたしの前で楽しそうにはしゃいでいる中学生の男女5人の頭上にうっすら溜まっている光を、わたしは目を細めてみていた。コンビニにも、彼の名残はあって、それが、うっとおしくてたまらなかった。

一人の男の子が、笑いながら、わたしの方をみやった。カタカタの前歯。こつん、と、音がした。と思ったら、まぶたに零れた。雨だ。それを合図に、目の前のコンクリートに、ぽつり、またぽつり、と、染みが出来ては、大きくなっていく。見上げると、空はどんより黒くなっていた。
わたしと彼が二人で走っていたあの夜も、こんな風に雨は降りだした。

母親から送ってもらった、といって彼がわたしに見せてきたプーマの運動靴は、その時すでにくたくたに汚れていた。


彼は、靴が送られてきてから週に2~3度、夜の街を走るようになった。まるで今までずっと水槽にいた金魚が川に放されて気持ち良く泳ぎ始めた時のように。


そんな彼の姿を少し遠く感じていたわたしは、ある夜、後をついて行こう、と思い立った。


走ってる間中、彼は何も言わずとも、わたしのペースに合わせて走ってくれた。アパートの最寄りの駅から二駅先の公園の街灯の下で、いつの間にか咲き始めていた金木犀の匂いをその年初めて嗅いだ。もっと深く吸い込もうと息を大げさに吸うと、彼の鼻の上に雫がひらりと落ちた。雨だ。あちこちでどんどん大きくなるコンクリートの染みを踏むようにして、二人は手をつないで走り出した。この世に、2人だけしかいないような気がした。

中学生5人組は、一斉に驚き、慌てていた。一人がビニール傘を開くと、全員身を寄せ合うようにしてその傘の柄をつかんだ。そしてそのまま叫びながら駆け出して行った。互いに肩をぶつけ合いながら。笑いが、こだまとなって反響していた。コンビニ袋を下げてその横を足早に通り過ぎるサラリーマンは、彼女たちの世界には存在してないように思えた。きっとわたしの姿も。


雨は、街のすべての匂いや、音を消し去ってしまうようにごうごうと激しく降っていた。コンビニの入口の傘立てに置きっぱなしにしていた彼の黄色の傘を開き、しばらく迷ってその傘を閉じて、また同じ場所に差しなおした。そしてそのまま、走り出した。そして、「忘れずにいよう」と、咄嗟に思った。その途端、金木犀の匂いがわたしの周りに立ちこめてきた。


あの夜、びしょ濡れになって家に着いた私たちは、そのまますべての服を脱いで、暖かい湯気の中でシャワーを浴びて、そして、部屋に干してあったTシャツと、洗い立てのズボンに着替え、珈琲を丁寧に煎れて、すすった。二人の脱いだ洋服と、傘の先に広がった水たまりはなんだか笑っているみたいに間抜けに広がり続けていた。

ずっと大切に思っていることを、ずっと大切にしたいと思っているはずなのに、どうして、時々大切に出来なくなってしまうのだろう。それは気恥ずかしく、けれど、どうしたってきっとそこからしか、私は走り出せない。だから、絶対に、忘れたくない。目の前をすごい勢いで上から下へと線のように落ちていく雨の中で何度もそう思った。そして、びしょ濡れのまま、家に着くと、玄関の横の靴箱から彼のプーマを取り出して、置いた。
どうしてそこに在ったのだろう、と今なら思う。でも、その時、それは、あるべくしてそこにあって、置かれるためにそこにあったのだ。

手の中のお茶がぬるくなっている。膝の上で猫が寝息を立てている。そのまま、わたしは眠っていた。

朝日をうっすら感じて目を開ける。急いで、上体を起こし、お湯を沸かし、着替える。珈琲を慎重に煎れて、パンを口に頬張る。鏡の前に立ち、髪を整える。唇にうっすら橙色の紅をひく。鏡を見て、そして、いつも通りの朝の一貫のように、玄関のプーマの靴を、ゴミ箱に入れた。そして、わたしは、スーツの上下を出来るだけ時間をかけて着た。


いつも通りの朝を踏みながら徐々に実感を帯びていく感覚を出来るだけ丁寧に味わった。
スマフォの画面が光る。耳に携帯をあて、ゴミ袋を持ちながらドアを開けた瞬間、強烈な光によって照らされた一瞬、懐かしい背中が見えた。名前を呼び、声をかけると、彼は振り返り、そして、あの夜の湯気の向こうの優しい笑顔を残して、やんわり、消えていった。

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