セクシャリティの見立てについて②

セクシャリティに関する感覚は、本質的に本人にとっては自明なものです。様々な感覚や体験からそこに意味づけがなされます。性別違和のように不快感を伴う場合もありますが、基本的に本人にとっては「なじみのある感覚」だと言えます。

そのため、仮に支援者自身のセクシャリティと著しく異なったり、支援者の価値観と大きくズレがあったとしても、本人にとってはそれが自然な感覚だといえます(快不快は別として、です)。

そのため、セクシャリティそのものが主訴となる事は基本的にありません。主訴として浮かび上がるのは、セクシャリティがその人の何らかのテーマや不適応と関わる場合です。

そのため、面接の中で直接的にセクシャリティを扱う事は、おそらくかなり少ないでしょう。加えて、セクシュアリティに関する概念や知識が普及された現代では、その人自身が早期に自己イメージを築きあげる可能性も、以前に比べ高くなっています。

しかし、すべての人が全く同じ性的指向や生物学的性、性表現、性自認という事は、厳密に言えばあり得ません。それは、遺伝情報や出生児の状況、臓器の機能、生まれてからの経験が人それぞれ全く同じ人はいないのと同義です。

思想や悩みとつながるかはわからないけれど、セクシャリティは、その人にとって生きる上での感覚の、土台のようなものでもあります。そのように考えると、その人のセクシュアリティを見立てる視点が必要になる、という発想につながります。

見立てるための情報が得られない場合でも、「様々な可能性がある」と言うことを意識できるだけでも、パーソナリティの理解の違いには大きな幅が生まれます。

さらにより応用的な視点につなげるのであれば、全く同じ人はいないと言えど、ゲイか、レズビアンか、バイセクシャルか、トランスジェンダーか、アセクシャルか、Xジェンダーか、といった便宜上のカテゴリーの中には、一定の割合で共有され得るような苦悩のパターンというものもあります。

もちろん個々の体験に沿ってサポートを組み立てていくいく必要はありますが、外傷体験を想定したり、また体験を聴く際のアウトラインとしてについ理解しておけると、支援の見立ての地図をより作りやすいでしょう。

では、そうした視点を培うためにはどのようなトレーニングが行えるのか。また改めて考えを整理したいと思います。

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