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本当に“先生”を必要としているのはどんな子だろう

「賢い子たちを教えるのは簡単なんだよ。すぐ理解してくれるし、伸びるのも早い」

僕の通っていたそろばん教室の塾長は自分の教育方針を話してくれた。先生はどんな生徒も(非行少年も、軽度の知的障害のある子も、おじいちゃんも)塾生として受け入れていた。

「できる子は、自分でも学べる。上手く先生を使うこともできる。大げさに言えば、彼らの先生は誰でもいいんだ。でも、本当に”先生”を必要としているのはどんな子だと思う?」

んー。当時(3年前くらい)の僕にはわからなかった。

「学校の先生にはお手上げと言われるような子たちなんだよ。彼らを成長させられるノウハウがあるなら、それこそが他の塾との違いを生む」

それが全てだとは思わなかったけれど、ストンと腑に落ちた感覚があった。

教えがい効率

大学生になってから、家庭教師のアルバイトをしている。

その中で、いろんな生徒さんを見てきたけど、正直飲み込みの早い生徒を教えるのは楽だし楽しい。

積極的に質問してくれるし、話を興味深そうに聞いてくれる。教えたことをちゃんと次の指導の時まで覚えてくれている。

そうすると、自分が優秀な先生になったような錯覚を覚える。労力に対して教えがいを得やすいと言えるかもしれない。

反対に、学習が苦手な生徒さんを担当すると大変だ。

モジモジとして質問できない、いつまで経っても教えたことを覚えてくれない、話を集中して聞いてくれない。どうせ僕なんかやってもできないよと呟いたりする。

生徒にこんな態度を取られたら辛いものです。悩んだし、自信を失いそうにもなりました。

それでもかろうじてモチベーションを維持できたのは、仕事として接していたからなんだろうな。これがもし自分の息子や娘だったらイライラしてしまうかも。

こんなことを考える時、塾長の言葉をよく思い出します。こういう子たちにこそ先生という存在が必要なんだよなあ。

どうしても頑張れない人たち

最近『どうしても頑張れない人たち』という本を読みました。ヒット作となった『ケーキの切れない非行少年たち』の第2作目です。

世の中には、一定数のどうしても頑張れない人たちがいる。それを豊富な事例と数値によって示してくれています。

世の中にあふれる「がんばる人は美しい」「がんばる人を応援します」といったメッセージ。

それは暗に「がんばれない人は軽蔑されるべき存在」「がんばれない人は助けるに値しない」と告げているのではないか?(作者は「がんばらなくていい」と言い続けるのが良いわけではないとも述べている)

能率が悪い、対人スキルが壊滅的、計画を立てられない、そんな人こそ真に支援が必要な人なのではないか?

考えさせられるテーマですよね。

たしかに、わかりやすく頑張っていて、しかも謙虚な人を応援するのは比較的簡単なこと。感謝もされやすいでしょうし、応援する甲斐を手軽に得られるかもしれません。自分の助言や支援が人の役に立ったという実感を即座にお得に得られるわけです。投資効果だって高いでしょう。

賢くて優しくてがんばっている人を応援する。

それは間違いなく、道徳的な観点から見ても、合理性の観点から言っても“よいこと”なはずなのです。

でも、なんだかモヤモヤしてしまう。

実力も運のうち

マイケル・サンデル教授の新刊の翻訳が出たので、さっそく買って読みました。タイトルは『実力も運のうち 能力主義は正義か?』。

サンデル教授の主張は、所得や教育の流動性が低いアメリカ社会の背景には、熱烈な能力主義があるのではないかというもの。

今の自分の地位・財産は自分の努力がゆえに手に入れたものだ。私は成功に値する努力をしてきた。もし君が成功していないのなら、それは君がしてきたことへの当然の報いだ。

こういう考え方が蔓延すると、勝者は驕り、敗者は屈辱を味わうことになります。

人生が上手くいかない時、能力主義の信徒は、自分が病気になってしまったのは(頭が悪いのは、出世できないのは)自分のせいだと余計に自分を追い込むことになってしまうのです。

報われるかに関わらず大事なこと

ある人が成功するかを決める要素は、本人の努力だけではありません。生まれ持った体(脳も含め)、家庭環境、出会った人や本、時代、タイミングなどが揃わなければならないでしょう。

努力が大事だと教えるのは、成功を決める要因の中で努力くらいしか制御できないからってだけのことで、それが最大要因だからではないんじゃないかな。

そうはいっても、報われるのでなければ面倒なことはやりたくない、こんなに苦しい思いをして報われる日は来るんだろうかと不安になってしまうのが人のさが。

だから、ちょっと長いけど、こちらの引用を読んでみてほしい。

もちろん、ある種の信仰があるべきだとは思うんですよ。「努力したら、最終的には報酬がある」ということは言ってもいいと思う。でも、どんな報酬がいつもらえるのかは事前には予測できない。ある種の努力をしているうちに、思いもかけないところから、思いもかけないかたちで「ごほうび」が来る。それはまさに「思いもかけないもの」であって、努力の量に相関するわけじゃない。

『評価と贈与の経済学』内田樹、岡田斗司夫FREEex著


望んだ形で報われるとは限らないけど、それでも努力は大事だし、勉強は大事。善い行いをしようとする心がけも大事。


こんなところなんじゃないでしょうか(え?どんなところ?)。

報われるためじゃなく報いるため

報われるかに関わらず、努力も勉強も大事なことなんだろうねえ。

というのが僕の率直な感覚的な意見なのですが、もう少し理屈を詰めてみます。屁理屈かもしれませんけどね。

だって、報われるかもわからないのにがんばるのって難しいじゃないですか。いつか報われるなんて言われても心もとないし。

(ちなみに、日本の若者は諸外国と比べうまくいくかわからないことに対し意欲的に取り組むという意識が低く、つまらない、やる気が出ないと感じやすいそうです。参照:https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.html)


足りない頭で考えて、とりあえずの結論が出ましたよ。


この問題は、たぶん発想の仕方がそもそも逆なのです(デデン)。

つまり、報われるため、ではなく、報いるためと考えた方が上手くやれる問題なのです。

「神の恩寵に報いる」って言葉がありますよね。まさにそれです。

僕らは不完全で、不器用。時には淫らなことや邪なことも考えてしまう弱い生き物。サボるし、怠けるし、見下す。それでも、ここまで生きてこられた。なんて幸運なことなんだろう。

こういう恩寵を賜った的な感覚から、それに報いようと努力し、勉強し、善行を積み重ねていく。少しでも自分の”善良な側面”を表に出す時間を増やしていこう、と。

社会的な生物としてはこっちの方が持続性がありそうです。

いかがでしょうか?


長くなりましたが、今日はこの辺で。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。


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