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忘れていた遠い過去(これぞフラッシュバックの第一次パニック障害)その1

 パニック障害は、17歳のときに発症した、と思っていたけれど、実は8歳頃に一度患っていたことを、ある日思い出した。
  私と弟は、母が働いていたため小学校が終わると、近所の家に預けられていた。学童保育というシステムがまだない頃、その家には他にも同じ境遇の子供が預けられていたけれど、就学前の小さい子が多かったように思う。
  そこの家の長男は、私と同級生。最初は普通に仲良くしていたのだけど、ちょっとしたことでケンカになる度に、大変なことに気づいた。
 私たちは、同じ年でありながら、取り去ることのできない上下関係に縛られていたのだ。
「ママに言って、もう預かってやんなくしてやるぞ」
 この切り札は、痛い。
 当時はまだ母のことがよくわからなかったから,普通に慕っていた。だから、そんなことになったら母が困ると思った。自分の弱い立場を思い知った一言だった。それ以来、と言っても預かってもらって2,3か月で思い知らされたので、かなりの年数ものすごく遠慮するようになってしまった。なるべく、そいつを怒らせないように気を使っていた。
 気配を消すようにしてふるまい、喉が渇いても我慢、トイレに行きたくても忍耐、だ。なるべくその家に迷惑をかけないよう、余計な水を使わないよう、そう思ったのだと思う。
 だから、いつも喉はカラカラ、トイレは限界まで我慢していた。
 母は夕方には迎えに来るが、それが何時と決まっているわけではないから、いつまで我慢すれば良い、という目安などない。もうダメだ、限界だ、と何度思ったことだろう。
 弟が病弱だったので、母になるべく迷惑をかけないよう生きていたので、だからその家でトイレに行っていないことも秘密にしていた。
 ある時は放課後、その家の近くにある同級生の女の子の家で遊んでいる時に、失禁してしまった。気を抜いた時に、あっっと思ったら、もう出てしまった。
 きっといつも我慢していたのだろう。今から思うと、自分でもかわいそうだな、と思ってしまう。
 でも、もっと傷ついたのは、母によって。夕方保育ママの家で、
「早く迎えに来て」
 と毎日祈るような気持ちで、母を待ち続け、漸く来てくれ帰路へ。自宅までは歩いて15 分ほどだったろうか。家の玄関が見えた時、安心してしまったのか、あとちょっとのところで、漏らしてしまった。
 仕事を終え、子供たちを迎えに行き、これから大急ぎで夕食を作らなければならない母にとっては予定外のやっかいごと。
 慰めてくれたり、
「我慢してたの?」
「大丈夫?」
 というような言葉かけは一切なく、
「早く着替えなさい!」
 とか、そんな感じだったのだろう。
 どのように処理されたのかは、あまり覚えていないが、この一連のパターンはよく起こる。予定外のことをした時、イラついて罵られる。それは、単に忙しかったからなのか、元から持っている性格なのか今となってはわからないけれど、多分両方。退職してからも、突然の意味のわからない不機嫌は健在だったので。
 翌日の迎えの時、その保育ママに、
「昨日は稀沙がもらしちゃって」
 と。告げ口? 笑うためのネタ? とにかく私がそばで聞いていることなどおかまいなしに。
「あら、珍しい」
 保育ママは、つられて笑っていたけれど、子供を引きとる間の数分のやり取りの中で、わざわざ言うこと?
 8歳の私は、まだ自分の考えを完全に言葉に置き換える術を持っていなかったけれど、
「みんな、おまえのせいなんだよ」
 と心のどこかで、うすぼんやりと思っていたような気がする。
 待っても待っても来ない母。とうに膀胱の限界は、過ぎている。もっと早くに来てくれたなら。
 その悲しい思いを、笑う?
 ものすごく深い心の奥底で、そう思っていたからこそ、今その気持ちを文字にすると、母の呼び方は「おまえ」になってしまう。
 でも。
 そのような、
「どっかおかしいぞ、このヒト」
 という疑問を持っていたからこそ、後年はっきりと切り捨てることができたのかもしれない、とも思っている。

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