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指先から憐れみ光線を出す人たち(勝手にさびしくてかわいそうな子供と命名されました) その3

 それから暫くして中学時代の他の3人の友達と会った。同期会に来られなかった一人に、その時の写真を見せたり、来ていた人の近況報告をしたりした。
 その中で垣田さんの話題も出た。私は、ランチをした時の話もつけ加えて報告した。悪意を交えず事実だけを伝えたつもりだったけれど、一人の友達が、
「その垣田さんて人、クラス違ったから顔も名前も知らないけど・・・なんだかいけ好かない人ねぇ」
 と言った。他の2人は、垣田さんのことを知っていたけれど、それでもその意見に同意していた。そうなんだ。あの「順風満帆が怖い」という会話を普通に受け入れられるほど、私の精神は落ち着いてきていたことを逆に知ることになったけれど、以前の私だったら、やはり気分を害していただろう。たしかに、リアクションとしては素っ頓狂。
 でも、仕方ない。
「さびしいでしょー」
 と平気で言ってしまえる人だもの。そういう精神は、そう簡単には変えられはしないし、そんなこと期待もしない。ただ。なんとなく、もう傷つかないように無意識に予防線は張っていたかもしれない。時が過ぎても何かやられたことは、心の水面下で覚えているらしい。
 そういうのは、悲しい。本当に。
 でも、自分が憐れまれていて、後ろ指さされているのに気づかない人もいる。母も、その中の一人。まっこうから、
「息子さん、かわいそうにねぇ」
 と同情されているのに、平気で、
「そうなんですの」
 と弟の心臓の病気の詳細を説明し始める。目を見れば、それが本心で言っているのか、または興味本位で尋ねて、
「うちは、そんな子供がいなくて良かった」
 と思っているのか、わかりそうなものなのに。
 私は、いつも不思議だったし、そのからくりはどこにあるのか長い間わからなかった。
 大人は、表の顔で本気で心配しているような演技をするけれど、心の中で舌を出していることが多々ある。私は、その「舌」を子供ゆえに見せつけられてしまったわけだ。そう、私が子供だったから、かえって目の当たりにすることになったのだ。
 井戸端会議だって、私が大人であったらあんな近距離で噂話などしないだろう。そんなことをしたら、品位を疑われるし、万一の場合トラブルになってしまう。
「子供だから言ってもわからないだろう」
 という、高をくくった思い違いが、こんなにも人を苦しめる。罪が深すぎて、何も言えない。
 相手の本心を見抜けない母は、鈍感なのだろう。それが、証拠にやっぱり子供への配慮など全くせず、私の前で井戸端会議の女たちと同じようなことを、繰り返す。一番びっくりしたのは、弟が5歳の時のこと。先天性の心臓弁膜症と言って心臓に穴が開いているのでそれをふさぐ手術が必要で、入院していた。病院の食堂で両親と弟と食事をしていた。丸いテーブルで、4人がけ。父と母、私と弟が対峙していた。急に母が、少し身を乗り出して、父に顔を近づけた。
「あの子、ファローよ」
 母の斜め後ろの男の子を視線で指し示し、父に告げた。
 ファロー・・・。それは、心臓疾患の中でも重いもので、4つの症状が重なったものらしい。
「ファローの子は、ちゃんと座れないから、見てみなさい。ペタン、と座ってるでしょ」
 とか何とか。
 母は、自分の息子より重い症状の子を見て、安心したかったのかもしれない。でも、それは心の中か、せめて私たちのいない時にやるべき。
 私と弟に聞かせる必要は、まったくない。
 もしかしたら弟は、彼と友達になっているかもしれないのに。
 私は、この時点で、
「そんなこと子供の前で言うべきじゃないだろ」
 と思っていたけれど、黙っていた。
 言えば、
「ナマ言いなさんな」
 と怒られるから。
 本当は、父が注意しなければいけない大切な役目を担っているのに、何も言ってはくれない。母の暴走は止まらず、こういうのが機能不全家族たるゆえんなのだ。
 そんな話を聞いてしまった私は、どうなってしまうか。重い症状を抱えたその男の子が、もしかしたら死んでしまうのではないか、と心を痛め、それをまた誰にも言えず一人で抱えて震える夜を迎えるのだ。母は、私がそんな感受性の強い子供であることを、これっぽっちも理解していなかった。

 さて弟の手術も無事に終わった。開腹したら1センチと言われていた穴は2センチだったとのことで、この時点で手術をしておかなければ20歳までは生きられなかっただろう、とのことで本当に良かった。
 これで家族の最大の心配事は失せ、母にも余裕ができ、私のことも少しはかまってくれるかも、と淡い期待をしたけれど、それは見事に裏切られた。何も変わらず、今までは弟ばかりをかわいがるのは、病気のせいだと思っていたけれど、その後もずっと私には冷たかった。ちょっとびっくりしたけれど、私の願いが叶えられたことなんて、今までだってないに等しかったから、
「そんなもんか。期待した方が悪かったな」
 というあきらめの気持ちでもって、封印した。
 けれども、そこまで自分を押し殺していた私でも、それはいくらなんでも…と思った母の言葉がある。
 弟の手術が終わって1年ほど経った頃だったろうか。伯父の家を訪ねた。弟は、いとこたちと遊んでいたのか、その場にはいなかった。
 食事の後で、お茶を飲んでいたのかもしれない。テーブルにいた子供は、私だけだったと記憶している。
 伯母が手術の日の思い出話を始めた。
「あの日、急に電話がかかって来て…。輸血要員として頼んでた人が倒れちゃったのよね」 
 それは、私もよく覚えている。手術のための入院期間、私はこの伯父の家に預けられていたから。輸血を頼んでいたうちの一人の女性が、当日病院まで来たものの、こんな小さな子が手術を受けるなんて! と動揺し、血圧が急上昇したのか、貧血になったのか、とにかく採血ができない状態になってしまったので、急遽伯父に白羽の矢が立ったのだった。そして、あわてて出かけて行った後ろ姿も残像として頭にある。
 母が伯母の言葉を受け、細かい説明を加える。
 そうして、伯母の言葉がけ。
「だけど本当よく頑張ったわよ」
 母を、たたえる。母は、褒められて気を良くしたのか、テンションが上がり始めて、
「あの時は、本当―に辛かったわ。いても立ってもいられなくて、主人と2人病院の屋上から飛び降りちゃおうかと思ったもの」
 と言った。
 私の目の前で。
 それを聞いた時の幼い私の気持ちを、想像してみてほしい。
 ずっと弟のために我慢に我慢を重ね、人の家に預けられ肩身の狭い思いをし、涙をこらえ続けたその先は、一人ぼっち? 天涯孤独?
 状況次第では、弟も亡くなっていた可能性もあるわけで、結果的に飛び降りなかった過去の話とは言え、私は頭がぐらぐらと揺れるほどにショックを受け、口の中がカラカラになってしまった。
 あーあ。
 この人たち、全員ダメ。
 母は、こんな内容の話を娘の前でするなんて、どんなことがあってもしてはいけなかった。やっぱり子供だからと思って、見くびっていたのだろうけれど、ちょっと考えればわかりそうなことが理解できないのだから、軽蔑に値する。
 傍らで耳を傾けていた伯母たちも、同罪。
 その時、
「あら、そんなことしたら稀沙ちゃんが1人になっちゃうじゃない、それはダメよ」 
と、どうして言ってくれなかったのか。
 衝撃が強すぎてその後の展開について、はっきりとは覚えていないけれど、
「本当に。そうよ、そう考えてもしかたないわよー」
 というようなことを言っていたと思う。
 決して私が欲しかった反応ではなかったことは、確か。

 私を救ってくれたカウンセリングの先生が、言っていた。人は、どんなに辛いことがあっても、その時寄り添ってくれたり、子供だったら、
「よしよし、大丈夫だよ」
 と頭をなでてくれ、抱きしめてくれれば、そういう感情はそこで御破算になって、後に苦しむ記憶として残らないそうだ。そうして帳消しにならないことだけが、辛い絶望の黒い海となり心の底で、たゆたえてしまう。
 今日も私は、その海に釣り糸を垂らして、悲しみをたたえている遠い記憶と釣りあげるけれど、それは自己憐憫のためではなく、それでもなんとか明るく生きてるよ、と過去の自分を励ますため。そうしないと、心の隅っこでうろたえている小さな私が、苦しくて苦しくて耐えられないだろうから。
 本当に信用のならない人と、どんなことがあっても信じられる人との見分けがつけられる今の自分、ちょっと頼もしい。さんざん見せつけられた大人の裏側だけれど、だからと言って、この辛い体験も役に立った、なんて絶対に言えない。絶対。
 人は、ずっと幸せで、特に子供時代は幸福に満ちあふれていた方が良いに決まっているし、そういう生活をしたからこそ、丸ごと人を信じることができるのであって、わざわざ辛い体験から学び取る必要なんて全くない。
 母親ほか残酷な大人たちによって傷つけられた人生の序盤戦にいつまでもこだわっていたら、残りの人生も呪われてしまう。だから、スパッと線を引いて、今も歴然と持っている自分のマイナス点は、
「辛い子供時代のせい」
 にしないように、思考回路に磨きをかける毎日。
 そうでもしないと、人生もったいなさすぎる。
 ただ。
 ただ、である。こんなズタボロの思いをしていた割には、人を妬んだりせず、なんとか明るく暮らせている自分が、ちょっとだけいとおしいだけである。ちょっとだけ、ね。


 こんなに長い文章を最後まで読んでくださり、本当にどうもありがとう。今苦しんでいる人がいたら、少しでも明るい希望が訪れますように・・・。

 そうして、またアップしたら他のエッセイもぜひ読んでほしい。

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