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立派になりたいという気持ちを捨てる

自分が何者か、何になりたいのか。何が出来るのか。
誰もがそんなことを考えると思います。
それは何故か。

立派にならなきゃ、
という義務感を刷り込まされているからだと思います。

立派になるためには、自分が今いる位置、そしてそこからどう進むのか、
考えないといけません。
ただ、私はときどきそれが苦しく感じる時があります。

全く考えない、のもよくないですが
考えすぎて自分の首を絞めるのもよくないです。

そうやって、少し苦しくなったら近所の教会に行きます。
洗礼は受けてませんが、日曜礼拝に参加することができます。

先日、読んだ聖書の箇所が心に残りました。

マタイによる福音書5章13~16節

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

塩は料理に役立つ調味料です。
使うと料理が美味しくなり、私たちに喜びを与えてくれます。
光も、周りを照らしてくれる生活を送るには必要不可欠なものです。

塩に塩気がなくなれば〜とありますが、実際塩は塩であって塩気がなくなることってないじゃん、と思いました。つまり、もうすでに私たちは地の塩・世の光だと言ってくれているようにも思えます。
無理にがんばらなくても私たちはただ存在するだけでもうすでに誰かの喜びやないと困る存在になっている、ということです。
実際そんな喜んでくれてる人いないよ、と思うかもしれません。
でも、そう思うことにしてみます。
そうすると、会うと笑顔で迎えてくれる人がいることに気付いていきます。
今まで、ただ自分が気付いていなかっただけで。
そういう暖かい眼差しに目を向けていなかっただけかもしれません。

聖書を読むと、当たり前のようで気付いてなかった存在に気付かせてくれるので、また時折教会に行くのもいいなぁ、と思った休日でした。

※聖書のことは全然勉強してないので、個人的にただ感じたことです。笑

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