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ブルシット・ジョブ #2

しろくま 私はまさにブルシット・ジョブをしていて嫌になったタイプなので、しかも典型的なホワイトカラーのコンサルタントで、そのときの経験からお話ししたくなるだろうなというのがテキストを読み進めていくうちに多く出てくると思います。

主観的だというのは本当にその通りだと思って、人によって何がブルシット・ジョブかどうかは違うと思います。もちろん傾向は言えると思うので、それを今後見ていくことになると思うのですが、というのも間接部門や官僚制とか会社法といった決まりの部分で言うと、何かがあったときに決まりや、提出しないといけない書類がどんどん増えていく。それは会社の中でもすごくあった。昔こういうことがあったから、今こういうことをしないといけない決まりなんだ、みたいな。別に今そういう状態かどうかがわからないのに、以前何か問題が起こったから、それに対処すべく決まりが増えていって、「それは本当に必要なのか?」というモノが増えていくのはすごく感じていました。

直接部門においても、「これは本当に必要なのか?」というものが生じる理由は、ホワイトワークが基本的に誰かが作り出した仕事だったりして、コンサルだったらエッセンシャルワークではなく、誰かが必要だと思って有形ではないものを作り出して、そういうときに誰かは必要だと思って、売る人も買う人も必要だと思うから売買が成り立つけれど、そこって結構主観というか、この仕事は必要だよねと思うかどうかは人によってしまう。そこで必要だと思えない人がブルシット・ジョブだと思ってしまうことがあると思います。

コンサルの主体的な業務もそうですし、分かりやすいところで言うと会議でも、無駄な会議かどうかは、全員が無駄だと思っている会議はあるかもしれないけれど、それよりは、誰かにとっては目的があって、意味のある会議の方が多くて、10人中2人くらいは必要だと思っているというような仕事が大量にある。そのせいで「これって必要ですかね?」という議論を行ったところで、「これはこういう理由で必要なんだ」と思う人が居る以上はなくならない。そういうものが大量にあったなと経験として振り返っています。

うえむら 私はこの中では唯一公共部門で働いている人間で、しかも2年ほどロビイストもやっていたので(笑)、ブルシット・ジョブとして名指しされている職業に就いていたという意味でみなさんと気持ちを共有できるかなと思います。

ロビイングのように、本来要らないのではないかと思えるような無駄な業務が増えていくことによって何が阻害されているのかというと、それはリソースが阻害されていると。本当はもっと別のところに投じることができたはずのリソースが、無駄な部分に投じられていることによって、イノベーションが阻害されているという問題意識があるのだろうと思います。だから先程こにしさんが言ったように、「ブルシット・ジョブは主観による問題なのだから、主観によって解決を図るべきだ」という方向性も当然あるのだろうけれど、やっぱり構造に思いを致した上で、少しずつ改善を図っていかないといけない。まさにこのテキストの著者自体がアクティビストで、言論活動を通じて社会を変えていこうという人物ですから、そういう趣旨は籠められていると思います。

そこで成し遂げようとしているのは、この著者は先程も少し紹介がありましたが、『官僚制のユートピア』という本を著していて、そこで論じられています。それは、こういうブルシット・ジョブが多いことで、本当なら発展し得た、20世紀に想像していた21世紀以降の未来が、つまり空飛ぶ車が飛び交うような、ワクワクするようなテクノロジーに満たされた世界ではなくて、今行われているのは、官僚制を突き詰めて、官僚制をいかに敷いていくかにテクノロジーが費やされているという世界観に対する批判である訳です。それを少しでもワクワクするようなテクノロジー側に寄せていくためにどうすれば良いのかというのが問題意識としてまずあると思います。

主観と客観の話で、今ご意見を聞いていて思ったのですが、割と社会学修士の界隈で、労働経済に重点を置く学者たちは、リベラルな価値を実現するために、コストはかけるべきであるし、そのコストをかけた人たちにはきちんと報酬で報いるべきであるという思想が念頭にあると思いました。ただ、多くの人はそのリベラルな価値観自体を、具体的にはそれはポリコレであったりコンプラであったりするわけですが、本当に価値として信じられていないが故に仕事がブルシット・ジョブ化しているのだろうと思いました。

だから先程挙げておられたような「リベラルな価値をもっと敷いていけば良いんだ」という解決策はある種暴力的だと感じられて、そうした方向性もあるのだろうけれど、そうではなくて各自が信じられるイデオロギーに基づいて労働を選び取れるようになれば良いのだろうなと思いました。具体例があまり思い浮かばないのですが、例えば家父長制を信奉する人がハウスワーカーとなって家事労働を仕事にするとか。イデオロギーと労働がその人の中で合致するという体験がブルシット・ジョブ化を避けさせてくれる、というご指摘として受け止めました。

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