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ブルシット・ジョブ #26

◆労働価値説の歴史説話

うえむら 4節から6節は読み物として面白かったですね。北部ヨーロッパの貴族たちは子どもの頃に他の貴族の家に奉仕に行くという文化があって、働くことでマナーを獲得するというイニシエーションが労働規範に繋がっていったという歴史物語でした。

こにし 日本でもかなり共通する部分があって、商家の丁稚奉公の話は、会社組織になる前の商業の形態としてすごく一般的にあった話だと思います。

うえむら ただ日本だと武家はどうだったでしょう。武士の子弟は参勤交代の人質ではあったけれど、江戸城に出仕して奉仕していたのかというと、そうではなくてお国の江戸屋敷で寝ていただけじゃないのかな。

こにし 特権階級ですよね。

うえむら 北部ヨーロッパでは特権階級ですらも奉仕の枠組みに入っていた。

こにし 確かにそこは少し違うでしょうね。階級によって明確に分担される。武家の文化にそこまで詳しい訳ではないですが、何らかの明確な階級制度を前提に考えたときに、北部ヨーロッパのようなありかたの方が規範は醸成されやすいですね。騎士道精神みたいな話で。

うえむら 少々唐突ですが、日本の新宗教を比較例として挙げると、そこでは学びの場がイエと同化しているんですよね。北部ヨーロッパの事例では学びの場を貴族同士で交換していた。A家で生まれた子弟はB家で奉仕し、B家で生まれた子弟はA家で奉仕する。交換することで一定、イエと学びの場を切り離すことで、家族的抑圧と世間的抑圧を区別しようとしていたけれど、それが新宗教においては一体化して、逃げ出さざるを得なくなっている。

こにし そう考えると、家庭間で子どもの交換をして、社会性を植え付けたというのはだいぶ違う慣習で、よくできた慣習だなとも思いました。

うえむら 前近代あるいは浅い近代において、よく成立していた慣習だったかもしれないですね。

こにし ギルド(商家)は分かりやすいですが、貴族もそうだったんですね。

うえむら ギルドの中で社交性を身につけるのも重要な学びだったと。五人組しかり、同調圧力は日本のお家芸ですけれど。

こにし コミュニティ単位だとある意味日本に近いので理解しやすいですが、家族単位の慣習はめずらしいです。

うえむら 日本の農村や武家はコミュニティを築くことでマナーを植え付けようとした。

こにし 過度に相互監視的なコミュニティですね。それは幕府の方針でもあったのでしょうけれど。

うえむら 以下、個人的な理解を交えながら論述をトレースしてみます。

6節では、そういった奉仕文化が、雇用労働という社会情勢の変化に伴って、「未熟な人間のまま雇用される」という論理的帰結を生んでしまった。こういったプロレタリアートの形成が、モラリズムとしての反発となり、「労働に包摂することで身体規律をもたらさないといけない」という思想に繋がっていった。そしてその労働規範はやがて労働者たちによって、自分たちを押さえつけるものではなく、自分たちこそが価値の源泉なのだという「労働価値説」という抵抗のテーゼとして捉え直されるようになる。これが1830年代以降のリンカーンやアメリカンドリームの時代であり、何度も革命が起きることによって階層が揺らいでいったフランスのトクヴィルが体験し観測した時代の話でもあった。

7節では、労働価値説が「生産」に着目したことで、ケアという視点が失われていったという話に繋がるのですが、そこで資本家たちが採用した論理が「資本こそが富を作り繁栄を作る」という視点のズラしだった。P302では資本家を掣肘する法制度について、「資本家になりたい人びとは、会社の設立がまちがいなく「公共の便益」に資することを証明できないかぎり、有限責任会社を設立する権利を認められなかった」と、儲かっているからと言って資本家が参加してはいけないという、良い制度があったわけです。この点、明治時代の北海道を舞台にした『静かな大地』池澤夏樹という小説では、苦心して馬と暮らしながらようやく軌道に乗った牧場経営者に対して「投資させて貰えないか」と上澄みだけ掠め取ろうとしてやって来る投資家が登場する不穏なシーンがあって、読者は「こいつらうぜえ」となるのですが、そういう資本家の動きが予め法制度上掣肘されている時代は良かった。

しかし、1870年代に入るとアメリカは、ヨーロッパの「大不況」(1873~)によって生じた余剰資本の投下先として目されるようになり、第二次産業革命の舞台(トム・ソーヤの冒険、金ぴか時代)となって、石油産業や自動車産業が著しい発展を見せた。と、そのように世界史では習うけれど、そこでスタンダードオイルのようなトラストが生じるなど、資本の蓄積こそが繁栄を作るというイデオロギーの変化が、経済学史的にも「セイの法則」が登場するなど、アカデミズムからも理論的な裏打ちによる後方支援を受けることになる。

その次に書いてあるフォーディズムの「科学的管理法」は、テキストで言っているよりももう少し後、WWⅠの後、1920年代の債権国への転換以降という印象ですが、時期はともかくとして、フォーディズムの本質は「労働者自身の自己規律による労働統治」であって、資本家が押し付けていたはずの労働規範が、労働者たち自身によって担われるようになってしまった、というざっくりとした歴史物語の理解です。何か論点があれば。

こにし 歴史物語は「そうだったのか」という受け止めですが、資本家が掣肘されていた時代から、資本家の天下の時代が長く続いた後、現代に生きる人間からすると今はある意味1.5周くらいした世界になっている。つまり経済的な利益を追求するとともに、それを持続させるために社会的な価値がその事業にあることをある種偽装しなければならなくなってきている。

どこの会社も今はSDGsを標榜して、一見企業上の利益とは関係がなさそうな価値を会社のステイトメントで押し出すような時代になっているし、それをやっていない会社は株式市場で評価されないようになっている。ただ本当にビジネスとテクノロジーによって社会的公正が維持されていたり向上されていたりしているのかは、あまり検証されていない気はします。

ただ少なくともそれを建前上は取り繕わなければいけない。それがブルシット・ジョブなのかもしれませんが。それを言っている人がフェイクなのかリアルなのかを判断するのはすごく難しくて、電通もこれだけ批判されていますけれど、たぶん会社のホームページを見ると、社会的貢献を押し出していると思います。フェイクかも知れないですが、みんながそう言っている。だからテキストにある「資することを証明できない限り」とありますが、みんなが経済利益至上主義の反省から、そうではなくて「世の中の役に立つ」ことを主張する時代になっている。

うえむら それは企業体としての理念になっているものの、そこで働く個人の理念にもなっているのかというと、それは違うのだろうけれど。

こにし 企業としての理念と一致して社会的な価値の維持や向上を最終的な目標としながら、同時に事業としてマネタイズもすることが、どんどんできるようになっているし、だからこそ社会的価値を高める活動のことを「お金を貰うに値しない活動なのだ」と主張することには違和感がありますね。「泥棒男爵」みたいな人はもうあんまりいないんじゃないかな。

「社会的価値がある」とされている仕事の中で、アンペイドな仕事も数多く残されているのは事実であって、それはそれで問題なのですが、ペイドでかつ社会的価値のある仕事も増えているとは思います。「会社が社会の役に立っている」という話が虚構でなければ、資本家による支配は維持されるのではないでしょうか。全然役に立っていないのに言い続けているならばブルシット・ジョブを生んでいる源泉なのでしょうけれど。

うえむら そこで会社の役割というのは、先程の牧場の経営で言うと、馬という価値を生み出すとともに、資本家が「泥棒男爵」にならずして上乗せすることができる価値があって、それを会社が提供できる、というイメージ?

こにし 事業を何やっているかは、色々あるのでしょうけれど、何かしら事業をするときに、P302だと「会社を設立するために、それがまちがいなく公共の便益に資することを証明できない限り会社を設立することができない」時代から、経済的な利益を露骨に押し出して進めていく時代に移った後、今はまた一周して、やっていることはそんなに変わらないかもしれないけれど、「社会的に役に立つよ」と言わないと、事業がスケールしない時代にはなってきている。

うえむら もう一度古き良き時代に戻ったと言うこと?

こにし 「社会的に役に立つよ」は主格にまで戻ってはいない。

うえむら それが何故かというと、労働価値説に裏打ちされているからではないよね、という話か。当時は労働価値説によって、資本家の搾取が否定的に捉えられていたけれど、現代は資本家の搾取を認めた上で、それでいて社会的な価値の追及が求められていることに、何か別の規範意識が働いているのではないか、ということか。

こにし 富の生産者である資本家たちが、見かけ上、公的な役に立っていることであったり、ひいては資本家が行っている事業が社会全体の利益になっていたりすることを取り繕うようになっている。

うえむら 構造を変化させようとして1周させているというよりは、単に前時代的な規範意識を、構造は温存したままに装っているだけですよね。

こにし そう、やることは変わっていなくて、説明の仕方が変わっているだけ。

うえむら そのときに、こういった労働価値説の時代のテーマを引用しているように見えるということか。ただこの節はずっと労働価値説について語ってきたのに、それが最終的に「生産」というものに着目しすぎました、もっと「ケア」に着目しないといけないですね、という反省に繋がっていて、前説がデカかった割に結論は小さくなっているけどね。

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